政治的に正しくない母娘、伝統的に正しい母娘、現実的で合理的な母娘

2016-07-23に書いたエントリー

むかし書いたらくがき出てきた。当時わたしは一人暮らしで、「おかあさんに甘えたい」と思うつらいことがあったのだと思う。実母はマツコデラックス体型からもちびくろサンボママ*1的素朴さからも程遠い人。

 

web通販でとてもすてきな傘を見た。まっさきに思ったのは「母の誕生日プレゼントにどうかな」であった。「なぜそこでそう思うんだ。術をかけられてる」ともちおにいわれた。なんでだろうねえ。わたしは昔から母をちやほやするところがある。

 

さいころから書店へいっては母の好きな作家の本や画集を小遣いを貯めて買い、自分のお気に入りのイアリングや傘を母が紛失してテヘペロを繰り返すことに甘んじ、父から送られていた養育費をビタイチ寄越さず着服することを当然だと思い、食事や旅行代を立て替え、いまも母のスマホ代を支払っている。前世のわたしは母に貢ぎ続け「来世では身上潰すまで貢がない!」「でもそばで助けてやりたい!」「娘に生まれればいい感じに距離がとれるはず!」と懲りずに近親者に生まれてきたのだろう。今回で懲りるだろうか。

 

「おかあさんとわたし」に母を巻き込むのは「娘と私」に母がわたしを巻き込むのと同じで、母も迷惑するだろう。これまでわたしは母から理想の娘を押し付けられることをとても苦しく思った。母はおかあさんでなくていい。それでもひとり暮らしをしているわたしを生んだ年老いた女性として親切にしたいと思う。金も体力もわたし以上にあるとしても。

 

父も母も親ではなくひとりの人として見ると強烈で面白いひとたちだ。飽きない。物語の登場人物みたいで感心する。自分とまったく違う。見習いたいところ、学ぶべきところを持ち、同時に反面教師として他の追随をゆるさないやらかし方をするひとたち。だからどうしているかなと気になって仕方がない。ヲチ対象として優秀。物語と違うのは当事者として流れ弾がしばしば飛んでくるところ。

 

よく考えたらあれほど強烈な人たちがふつうのおとうさん、おかあさんになれるはずがない。母はわたしが幼いころからは「お淑やかで雅やかな娘になってほしかったのに」とよく嘆いていた。無茶なことをいう。わたしも母に「包容力があって愛情豊かなおかあさんであってほしかったのに」と無茶をいうまいと思う。美味しい料理、美しい部屋、美しい容姿とユニークな生き方を愛でていればいい。ああ、もしかしたらわたしは、自分を袖にするあの人を諦めきれず、娘に生まれてくれば愛されるんじゃないかと夢見て今生は娘に生まれたのかもしれない。母娘にそんな幻想を持つとは、前世は男だったのだろうな。

 

だから母は娘の女子化を嫌がり、いまもわたしをナイト扱いするのだろうか。いいよ、つきあうよ。102歳で世を去った不思議な力を持つ祖母は倒れてのち駆け付けた娘をみつめて「この世はめぐりあわせ」とつぶやいたと母は繰り返し言うけど、ママ、あなたとわたしの間にも、かなりそういう因縁、あるわよ。いまは嫌じゃないけど。

*1:ちびくろサンボのママ的キャラクターって奴隷制度の象徴っぽいから欧米では撤廃されていそうだ。でも映画ヘルプ 〜心がつなぐストーリーでは「子供らを育てたのは黒人ナニーだから子らが思う母親はナニーなのだ」という描写があった。だったらみんなもっと大事にしたらよかったのに。