花を盛って幸偽装

はあちゅうさんの旦那観察日記を毎日のように読んでいる。読むと「あるある、わかるわかる」とあたたかい気持ちになる。幸せな家庭はどれも似ていると言ったのはトルストイだったと思うが、よもやはあちゅうさんとしみけんさんが自分ともちおに似ていると思う日が来るとは思わなかった。

 

はあちゅうさんは結婚報告を境に目覚ましくきれいになった。剛力彩芽と並んでも引けを取らない.。好きな人と結ばれて生きる人の淡い光沢のような輝きがある。

 

歯科医院に勤めていた頃、いたって無口で平凡な顔立ちなのに来院されるたび診療室を花畑のような雰囲気に変える若い女性がいて、お会いするのが楽しみだった。

 

いつしかカルテの名前を見るとうきうきするくらいお会いするのを楽しみにするようになったのだけれど、ある日彼女の背後から花が消えた。服装も髪型も立ち居振る舞いもいつもと変わらないのに、なぜか今日は花びらが乱舞しない。なぜだ。

 

次に来られた時にその理由がわかった。彼女は同時期に通院していたある男性患者と待合室で一緒になる日に咲きこぼれる花を満開にしてあたりの空気を変えていたのだ。相手の男性は平凡なアラサーの巨漢だったが、彼もまた彼女がいる日はこれまた見違えるような冴えたハンサムになっていた。彼は待合室で彼女を前に話しているときだけキリっとしていたので気づかなかったが、彼女は彼がいる日は長く幸せの余韻をまとって診察室に入って帰っていっていたのだった。

 

笑顔は最高の化粧だという人がいる。

これはちょっと語弊があると思っている。最高の化粧は幸だ。

どんなにきれいに笑っていたってそこに幸がなければ鳴らない楽器も同然なのだ。

 

わたしはひとりになってから毎日食事の写真を撮っていた。何を食べて、どの程度自炊ができるようになったのかを記録しておこうと思ったのだ。撮り始めてしばらくしてからもうわたしを撮ってくれる人も、出かけた先で一緒に記念写真を撮る人も、どこにいったか見せる相手もいないことに気が付いた。

 

それではじめは食卓や席の周りを一緒に撮った。それから自分をそこにいれるようにした。そして自分の形相がかつて知っていたときとはすっかり変わっていることに気がついた。

 

自分では普通の顔で、どちらかといえば微笑んで写ったつもりでいるのに、写し出されたわたしは引きつった顔で、表情はいつも暗い。葬儀が終わって帰宅してから遺影の前で妹から撮ってもらった写真はとくに酷い。目元、口元は確かに笑っているのに表情が定まらず、年明けの写真から10歳ほど一気に老け込んだようにすら見える。

 

もちおと闘病に明け暮れた3年間、鏡に映った自分の顔が知らない人の顔のように思えることがよくあった。まじまじと顔を見て「わたし、前からこんな顔だったっけ?」ともちおに聞いたこともあった。本当にはじめて自分の目鼻の形に気づいた気がした。これが加齢というものか、と昔のアルバムを見ると顔立ちは若い頃から変わっていない。でも、こんな顔だっただろうか。

 

おかしい、おかしいと思って暮らしていたが、ときどき「そうそう、これがわたし」と思う顔になっていることもある。何が違うのだろう。精神的なストレス、それとも脳に障害があるのだろうか。

 

そしてひとり暮らし自撮り生活をはじめた頃は「見知らぬ他人のような顔ではあるが、この顔を受け入れるしかない」と思う始めていた。いずれにしても生きていたら人の顔が変わるのは当たり前だ。それにしてもひどい。南国セブの陽光に照らされても、底抜けに明るいフィリピン人と並んで笑っていても、そこに写るわたしは笑顔の形のなんともとりとめのない壊れそうな表情をしている。

 

印象のよしあしは仕事にも影響する。何より生気がなくやつれた不幸な寡婦を毎日鏡で見るのが嫌だ。なんとかもう少し見られるようにならないものか。

 

こうして真剣に自分の顔立ちと顔つきを考えるようになり、まもなく自分の顔が自分のものだと思えなくなった理由と、悲惨な顔になってしまった理由がわかった。わたしは長いあいだ花を咲かせているときの自分を自分だと思って生きていたのだ。

 

「かわいいなあ、かわいいなあ」「自慢のカミさん」「美しい妻がいて俺は誇らしい」「愛してるよ」「ずっと一緒におってな」と言われ続けて「よくそんなこといえるねえ、もちお、すごいね」「はてこも!」「だいすき!」と照れたり笑ったり呆れたり飛びついて抱きしめたりしていたときのわたし、その顔をわたしは長いこと鏡の中にみて、それを自分だと思っていたのだ。

 

もちおはわたしと出会ってからずっと日々愛を語ることで水を注ぎ、妻がけなされることがあれば倍返しで褒めちぎることで手入れをし、抱きしめてキスをして大切に追肥し続けていた。それをうれしいと思っているときのわたしは確かにかわいい姿で動画や写真に残っていた。結婚生活に不満をもってグズグズしていた頃の自分はずっと若い頃の写真でも花園の中にいる様子がない。

 

二人きりで仲良く笑いあっているときだけではない。

 

数年前、知人と仕事の打ち合わせをしているところにもちおが迎えに来たことがあった。知人は夫を迎えたわたしを見るなり突然「あら!あら!あらもう、やだー!はてこさんたらー!」と急にもじもじし始めた。そして「もう、知らなかったわ!はてこさん、急にかわいくなっちゃって。帰りますね!」といそいそ帰っていった。

 

夫とはじめて顔を合わせて挨拶ついでに夫婦仲をほめる体でオーバーに冷やかされたのだろうかと思ったが、後日SNSに「旦那さんといるときのはてこさんは別人のようにかわいくて驚きました」と書いていたのでさらに困惑した。このときもちおはすでに闘病中でわたしももちおもにこりともせず玄関先で用件を伝えただけだったからだ。

 

「ここしばらく顔が違うと思ったが、それはもちおに可愛がられなくなったからだとわかった。むかしの写真を見てももちおと二人でしゃべってるときの動画のわたしは見たことがないようなかわいい様子でしゃべってた。大発見だ」とつきあいの長い友人に話したところ、「はじめて会ったとき、緊張していたのか何かすごい勢いであれこれ話していたので驚いた。でもあとからもちおさん来たらぱっと安心した顔になって『なんだよ、旦那にはやっぱかわいい顔するんだな』って思ったよ」といわれた。

 

 

去年の春から痛みがひどくなり、痛み止めを出してもらえなかったあいだ、そして痛み止めが飲み込めなくなってから、もちおの表情は日に日に険しくなり、水を注いでもらうことが減った。花園は静かに荒れていき、鏡の中には見覚えのない人が映るようになった。そして最期の10日間、もちおは文字通り命がつきるまで全力で愛していると伝え続けてくれた。だから最期に撮った動画のもちおは骨と皮ばかりなのに凛々しいし、涙目で微笑んでいるわたしは咲き誇る花の中にいる。

 

 

きれい、かわいいの正体と花の正体が愛されていること、愛していることだとするならば、いまのわたしは花のない花瓶のようなものだ。しかも欠けてヒビが入っているのだ。それは見る影もなくて当然だ。いまはあちゅうさんのまわりに咲き誇っている花、歯科医院に通っていた女性が漂わせていたあの花は、わたしの容姿や気質とセットではなかった。

 

というわけで、わたしは化粧品を買い、服を買い、はあちゅうさんおすすめのスマートフォンを買い、髪を切り、喉を鍛えて幸を偽装することにした。そしてここしばらくずっといまのわたしの顔で可能な範囲のしあわせそうな雰囲気づくりに励んでいる。「大好き、愛してる」は買えないけれど、親切な友人知人、そして食育に励む母の好意を注意して拾い集め、大切に受け止めて自分に水を注いでいる。自分の中に「大好き、愛してる」を膨らませることはできるしね。

 

スマートフォン越しのわたしは最新技術で盛りにもった透明感のある肌と勝手にいい塩梅に調整された瞳と唇でいい感じで、少なくとも年相応にそこそこしあわせそうに見える。これなら客商売にも差し障りがない。

 

でもGoogle photoが一年前の今日のところに最安値のスマホで撮った口紅さえ塗っていないもちおの横にいるわたしを出してきたりすると、本物のしあわせの威力に打ちのめされる。でも一生に一度でもそういう日々があったことだけでも相当な幸運なんだから、それが一生続かなかったと文句言うのも贅沢な話なのかもしれない。

 

とはいえそれがどれだけ贅沢な話であろうとも、もちおがいってしまうのが早すぎるよと一生文句は言い続けていきたいとも思う。これでよかったとはいわないからな。