取り戻すとき

受け止めきれないことを忘れたひとが、あとで記憶を取り戻す話をむかしたくさん読んだ。


体調を崩して病院へ行ったり、ガンに関するドラマを偶然耳にしたりしたせいか、もちおが最後に自宅で過ごした半月と、ホスピスに入って息を引き取るまでの10日間、荼毘に付されるまでの3日間の細々とした鮮明な記憶がここ数日細切れに蘇ってくる。


蘇るならもちおが蘇ればいいのにな。


何もかも忘れずに覚えていたいけど、深夜もだえ苦しむもちおの腹水を抜いてくれと医師に食い下がったこと、無断で薬を増やされ、あるいは控えられ取り返しのつかない事態に投げ込まれたこと、痛みと恐怖に脅えるもちおの真っ黒な目、土壇場のさなかにかすれ声と瞬きでもちおが伝えたおどけた話、どんなホラー映画よりも恐ろしい形相で痩せこけたもちおが目の前のわたしを他人を見るように凝視したこと、微かな顎の動きで伝えた愛の言葉が、なんども繰り返した「愛してる」「ここにおって」が、胸の張り裂けるような悲しみと腸が煮えくり返るような怒りと、恐怖と憎悪と無力感と絶望が、夢のような幸せとこれ以上ないような愛情とまぜこぜになってばらばらに思い出される。


そらキツいよな。眠れないのも無理はない。


まるで静かにコトコトいっていると思っていた鍋の圧力弁が激しく震えだしたみたいだ。


こうした気持ちをふたたび感じられるくらいの余裕が出来たと自然はわたしを見ているのだろうか。


それならどうか細部まで、書き起こせるくらいまで思い出させてほしいよ。
いまでは空き家のようなこの家に、確かにもちおと二人で生きていたと思い出せるくらいまで。
思い出して苦しむだけの甲斐はあると思えるところまで。


あの日々を昨日のことのように思い出すと「あのときもちおと一緒に息を引き取れたらよかった、そうすればよかった」と考えずにはいられない。でもいまさら死ぬのは意味がない。それはただの孤独死だ。わたしがしたかったのは心中で、あと追いじゃだめなのだ。


だから次に機会があるまで生きよう。寝込み始めて運動が足らないから頭が暴走しちゃうのだろう。次にわーってなったらジムいくわ。深夜でも。瞑想もするわ。野菜食べて、眠れるまで泣くわ。