運動の大きなおまけと、運動でまだ解決しないこと

十代から腎炎を患っており、近年とみに靴下のゴム跡がくっきり、というよりべっこり段差になって刻まれるようになっていた。

足が細いのでむくんでいるようには見えないけれど、むくんでいたんだなと痛感する。

ところが先日入浴時にふと見たら靴下跡はあるものの、例のべっこり段差状に凹んではいなかった。

肌艶もいい。やはり運動はいろいろ解決する。

しかし悩みはつきない。

それじゃ次は瞑想だと思って瞑想をはじめた。寝転がったまま、一点を見つめて空気清浄機の音に耳をすますという略式瞑想。

これをやるとなぜかドライアイが治る。渇きそうなものだけどな。やってるあいだスマホ見ないからか。

これまで漠然と想像していた寡婦の姿は夫を思って人知れず泣きながら、人前では気丈に振る舞い、顔で笑っていても心は凍りつき、愛しい日々のことは忘れようにも忘れられないといったものだった。

しかし実際なってみると辛いのは想像を絶する早さでひとりの暮らしに馴染んでいくこと、これまで当たり前だった夫のいる暮らしをどんどん思い出せなくなることだ。

指先から尻の丸みまで、一本だけ伸びていた額の髪の毛や脇の形、まなじりの下がり方、ちくちくした眉毛が頬に当たること、そんな細々とした何もかもを、いつまで覚えておけるのかわからない。それが辛い。何より新しい冗談が聞けないまま、数々のもちおの名句がどこまで思い出せるかわからないのがつらい。

はてなハイクに書いておいてよかったと思っていたのにハイクはなくなってしまう。

笑えないと思っていたのにわたしはまいにち何かしら楽しい思いをして笑い、もちおではない人のことを思い、もちおがいないのにはしゃいだり、もちおがいない未来をなお心待ちに夢みたりしている。

生きるために何でもしようと思ってやったことが着々と成果を上げていく。こうして二人で生きた時間を、はてしない物語のバスチアンのように失っていくのだろうか。

といった悩みに瞑想が何らかの成果を上げるといいな。あとは野菜350gと睡眠か。