夫を亡くしてセブ島に留学することになった その14 特別な母

f:id:kutabirehateko:20181114213634p:plain

ホテルの一階にあるカフェでラテを頼んだら180ペソ / 約380円だったんですけど、「50ペソあったら美味しい朝ご飯が食べられる地域でこれは高すぎる」と思うようになってきました。ケーキは90ペソでした。

 

さて、グループディスカッションに完成されたオネエぶりを示す優秀な講師がいて、母は彼を尾木ママと呼んでいる。まだこちらへ来てまもないある日のこと、グループディスカッションの受講生がわたしと母だけだったことがあった。

 

「さて!みんな調子はどう?」

ピノママはパンと打った両手を顎下に添え、小首をかしげてうっとりと尋ねる。

「あー…私はとても疲れてます」

母が眼をしょぼしょぼさせながら答える。

「あら!どうして?」

ピノママは身体をくの字に曲げて眉根を寄せて心配そうに母を見つめる。

「母は昨日騒音で眠れなかったんです」

横からわたしが口を挟む。

「騒音!『うるさい』じゃなくて『うるさかった』のね。そして…『眠れなかった』…『昨日の夜』。こうね。時制はとても大切よ」

ピノママは人差し指をぴんと立てて注意をひき、わたしのでたらめ英語をホワイトボードにきれいに書き直す。ピノママは雑談を引き出してはでたらめ英語を正して豆に書き直し、単語や文法の解説をしてくれる。

 

「そう、うるさくて眠れなかった。それはとってもお気の毒だわ。なにがうるさいの?」

「あー…誰かが深夜に喋っていたんです。私の部屋の外で」

「まあ。深夜に廊下で喋っている人がいたのね。なるほど」

「でも」わたしが横からまた口を挟む。「わたしには聞こえませんでした」

「聞こえなかった?なぜ?はてこはお母さんと同じホテルにいるの?」

「ええ、でもわたしには聞こえませんでした」

「なぜ?眠っていたの?」

「母はときどきおかしなことをいうんです」

「失礼、『母はおかしなことを言った』ね。それは昨日のこと?」

「いいえ、母はいつもおかしなことをいいます」

「どういうこと?」

ホワイトボードに掲げたペンを止めて講師が振り向く。母とわたしは曖昧な微笑みを浮かべて一瞬言葉に詰まった。

 

「そうですね、母はあるときわたしの家の近所のアパートに越してきました」

「それはいま?それとも過去の話?」

「過去です。数年前のことです」

「いいわ。『母は、以前、わたしの家の近所のアパートに住んでいた』ね。それで?」

「母は上の階…上の階ってなんていうんですか?上です。上」

「『次の階』」

「ありがとうございます。母は次の階の足音がうるさいといったんです」

「あなたのお母さんはあなたの家の近くのアパートに越してきた。そして次の階の足音がうるさいといった。駆け回る音?」

「んー…子供の足音が聞こえると」

「いいわ。あなたのお母さんは『次の階で子供が走り回ってうるさい』といった」

「でも母は最上階に住んでいたんです」

「失礼、なんですって?」

「母は、最上階に住んでいたんです。上の階、次の階はなかった」

「…最上階?最上階にいてなぜ上の階の音が聞こえるの…?」

「わかりません」

ピノママは目を見開いて腰を屈めながら固まった。

「そう、母はときどきおかしなことをいうんです」

ピノママは息をのんで両手で自分を抱きしめた。

「…怖い!!」

ですよね。

 

「だからホテルが本当にうるさいのかどうか、わたしは信じられないんです」

「わかったわ…それで、あなたはいつからそうなの?」

「子供のころから。あるとき私が外を見ると…」

母は遠慮がちなカタコト英語で超自然的な経験を次々に話しはじめ、わたしはでたらめ英語でそれらを補足した。講師は困惑しながら我々の言葉をなめらかで正しい英文に書き直し、何度も「なぜ?」「待って、どういうこと?」と自分の耳を疑った。そしてようやく話を飲み込むとしばらく黙り込んでから自分の肩を抱きしめて「怖い!」と言った。

 

「そう、母は変わってるんです」

「待って!」

ピノママは手のひらを突き出していった。

「お母さんはおかしいんじゃないわ。とてもユニークなの!

「ユニーク」

「そう、彼女はとってもユニークなの。特別よ」

「ありがとうございます」母は心からの感謝をはにかんだ笑顔とともに伝えた。

「実はね、私も、私の息子も、見たことがあるの」

「何を?」

「It's a Ghost」

今度は講師が超自然的な体験を話し始めた。午後の授業は完全に日比合同怪談と化した。この日を境に我々とピノママの距離はグッと縮まり、関係は深まった。超自然体験は国境を超えるのである。

 

「そう、だから彼らを恐れる必要はないわ。彼らはあなたを傷つけない。あなたはただユニークで、特別なの」

講師は慈しみの籠った眼で母を見つめながら祈るように組んだ両手を胸元に添えた。

「そして、はてこ」

「はい」

「次にこういうことがあったら、あなたはお母さんを抱きしめてあげなさい」

 「抱きしめる」

「そうよ。彼女は抱きしめてもらう必要があるわ」

 

ホテルは快適でわたしの部屋では何も起こっていない。わたしはしばしば出先で超自然的な体験をするのでいまの部屋が平穏でありがたい。一方同じフロアにある母の部屋ではこちらへ到着して以来おかしなことが起こり続けている。しかしホテルの何号室に問題があるというわけではないと思う。ただ母はユニークで特別なのだ。まだ抱きしめてあげていないのがいけないのかもしれない。