夫を亡くしてセブ島に留学することになった その10 Marisse Patisserie と一週間後の母

娘にそそのかれてうっかり留学してしまった終戦記念日生まれの母がセブ島に来て今夜で丸一週間になる。

 

深夜1時過ぎに空港に到着し、ウィンカーを出さない命知らずのタクシーに乗り、車道の車とその都度タイマン張って道路を渡るしかないスラム臭のする荒みストリートに位置するホテルへやってきたあの夜、母は完全に学習意欲を喪失していた。帰りたい。学費を溝に捨ててもいいから溝臭いこの街から逃げ出したい。これは大変なことになったとわたしも思った。一日も早く帰りの飛行機を押さえるべきかもしれない。

 

幸か不幸か行きに二人で往復4万1990円だった航空券はこの日に限って一週間先でも片道10万円を超えるものしかなかった。そんなにするのか!!

 

いま見ると一週間先なら片道1万5千円くらいでいくらでもあるし、Trip.comを見ると翌日でも4万出せば帰れるのでちょっと不思議な気がする。SkyticketでダメならとJEJU航空の会員専用ページに当たってみたが、なぜかどうしてもログインできない。

 

すでに支払った約20万円を溝に捨て、さらに片道7万円を支払っても帰国できるのは一週間後と知った母は絶望的な顔ですっかり元気をなくして「仕方がないわ」といった。いつもの母なら、そしてここが日本だったら、どんな手を使っても母は家に帰ったと思う。しかし母は疲れと不安で憔悴して怒りの火を燃やす気力を失っており、異国の地の命知らずのタクシーに40分揺られて空港へいくのはホテルにとどまるよりも怖かった。

 

あれから怒涛の一週間が過ぎ、ようやく週末を迎えた。

 

何事も早め早めで娘の睡眠時間と余裕を奪っていた母だが今朝は娘を起こしに来なかった。今日は学校がないから眠っているのだ。朝寝する余裕ができたのならよかった。わたしは午前中を部屋で過ごし、昼食前になってからそっと部屋を訪ねた。

 

 

母の朝活

母はすでにすっかり身支度を終えてニコニコしながら「おはよう。今日の朝ご飯、美味しかったわ」といった。

 

「ひとりで食べてきたの?」

「そうよ。サラダが美味しくておかわりしちゃった」

「あの道をひとりで渡ったんだ?」

「そうよ。それで学校の奥の細い道へ入ってみたの。見て。綺麗な鶏がいたの」

「へえ。まっすぐ帰らなかったんだ?」

「そうよ。学校の裏の通りを歩いてみたの。この白い花を眺めていたらね、窓から家の人が花の名前を教えてくれたの」

「へええ」

母の朝活の成果がすごい。食堂棟の脇道はゴミだらけで閑散としており、地元民向けのいじけた食堂が並ぶ田舎道である。一週間前私たちは50メートルほど奥に進んだ地点で野良犬と地元民の視線に怯えて引き返してきた。あの道にひとりで分け入ってきたのか。

 

「そしたら奥にとってもすてきなカフェがあったの」

なんですって。

 「広い門の奥に大きな樹が茂ったきれいな敷地があってね。セキュリティがあったから、『公園ですか?』って聞いたらコンドミニアムなんですって。『珈琲飲みたい?』っていうから『yes!』っていったら、奥にカフェがあるって教えてくれたの。見て!」

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「セブにこんなところがあるの?!」

「そうよ。お客さんはママと二人しかいなくて静かだったわ。珈琲を飲んでいたら激しい雨が降ったんだけど、プールの水面に雨が落ちるのがとてもきれいだった」

なにその村上春樹チックなシチュエーション。

 

娘が泥と排ガスにまみれて水たまりだらけの歩道で屋台を眺めて物思いに沈んだ町の奥の細道で、母は洗練されたすてきカフェの窓辺から雨音を楽しんできたらしい。

「そしてね、なんといってもトイレがすばらしいの!トイレットペーパーがあるの!」

なんですって?

「ペーパータオルまであるのよ!!」

セブのど真ん中でトイレットペーパーがある店もすごいし、トイレットペーパーを見て感激するようになった母もすごい。一週間で急成長である。ということで、母おすすめの店にわたしもいってきました。

 

セブ島すてきカフェ

入り口。32 SANSON が運営している。部外者お断り感すごい。よく入る気になったな。母はもともと好奇心旺盛で知らない道を見たら通りたがるし、知らない店はのぞきたがる。ようやく本来の自分を取り戻したんだな。警備員と目が合うと「先ほどはどうも」とにこやかに挨拶を交わす余裕まである。

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整えられた芝生とゴミひとつないドライブウェイ。左手に建設中のコンドミニアムがあり、右手にカフェとレストランがある。

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ブルーと銀とペパーミントグリーンを基調としたクリスマス仕様のすてきカフェ。

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Marisse Patisserie ?

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100メートル先の喧騒が嘘のように静かで洗練されたカフェ店内。

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「雨が降っているときは本当にきれいだったわ」というプール。木々に囲まれているのに水面の葉っぱはきれいにのぞかれている。

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ハリー・ポッターシリーズに出てきたBUTTER BEERがあったので頼んでみた。今日この日まで架空の飲み物かと思っていたが実在したのか。不二家ミルキーを飲み物にした感じで、とても甘いのに不思議とくどくなくて美味しかった。店内のウォーターサーバーからお水が飲めるように紙コップが置いてあるのもびっくりですよ。

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同日もう一度来て飲んだカフェラテ。縁がぼってりしておらず薄くて軽いカップをこちらでは初めて見た。カプチーノカップにもいいカップを使っていた。

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ハイクオリティなトイレ

「トイレにいってごらんなさい!トイレがもう、すごいんだから。トイレットペーパーがあるし、自転車もあるのよ」自転車?

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じゃーん。おお、確かに自転車がある!

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ペーパータオルだ!

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トイレットペーパーだ!!!予備まである!!!!

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消毒液っぽいものまで。すごい。外資系のコンドミニアムなのだろうか。ちなみに学校のトイレはセブ仕様でトイレットペーパーはない。

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「すごかったでしょう?!おトイレお借りするために来たいくらいだわ」

母にとって最大の感激ポイントはこのトイレらしい。よっぽど学校のトイレが嫌なんだな。まあ、わかるけど。

 

これから留学を考えている年配者へ 

大丈夫です、潔癖の権化のような母も一週間で慣れました。いまではセブの賃貸と売買物件の相場を調べて町ごとに比較するまでになっています。*1とにかく猥雑でチープなアジアの街を堪能したい方も、経済格差に物を言わせてバブリーな贅沢を楽しみたい方も、セブは面白いところだと思います。わたしはセブの暮らしの中で変わっていく母を見るのも楽しみです。

*1:ちなみにこちらのコンドミニアムは1ルームで約一千万円くらい。

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