同居する家族、または夫を亡くすとなぜつらいのか

葬儀のあとの興奮した日々を経て、いまは寝たり起きたりしながら暮らしている。夕方ふと甘い珈琲が飲みたくなって、ベトナム珈琲を淹れた。入れたら珍しく美味しく淹れられてなんだか元気が出て、CDを聴きたくなった。

 

これまでCDはブルーレイプレイヤーに入れてテレビのスピーカーで聞いていた。しかしこのスピーカーはもちおが最後に自宅で過ごした時期に、二人でパソコンで映画を見るためテレビから外してパソコンに繋げてあった。もちおがマイニイングマシンを設置していたテレビ周りは配線が混乱したままになっている。

 

わたしはまずパソコンからスピーカーを外し、テレビ回りの配線をひとつひとつ整理した。スピーカーの電源、テレビの電源、ゲーム機の電源、ブルーレイプレイヤーの電源、それから電子ピアの電源。絡まった配線をほどいて濡れ雑巾でぬぐう。埃を払って床を拭くと雑巾が真っ黒だ。試行錯誤しながらそれぞれのケーブルを繋げ、テレビ映りと音声を確かめた。

 

音楽が流れ始めた。

やりました。長らくもちお担当だった配線問題、ただいま自力で解決しました。

 

景気のいい音楽に調子を合わせて散らかった部屋を片付ける。書斎と寝室を行ったり来たりしながら目についたものを手あたり次第に元に戻す。どうしたらいいかわらかないものはわからないなりに揃える。片付けは料理や洗濯と違って手順や時間制限がない。好きな時にはじめて、好きな時にやめられる。

 

一息ついてソファに横になってBABY METALのウェンブリーアリーナライブを眺める。相変わらずろくなものを食べていないのですぐに疲れてしまう。でもいい。今日はなかなかいい夕べだった。部屋は人が呼べる程度に片付いて、だいぶましになった。

 

こういう瞬間が危ない。

 

いつもの暮らしが戻ってくると、いつものようにもちおが書斎にいるような気がする。書斎でなければ寝室でスマホを眺めている気がする。でなければ湯舟で映画を見ている気がする。外から帰ってくる気がする。そうなったらいいなあ、というようなしんみりした気持ちではない。目覚めた瞬間、夢の続きと現実の区別がつかないときのような真に迫る正気の混乱だ。

 

もちおが肉体を後にしたという記憶はある。現に片づけのいくつかは、もちおがいないからこそ発生したものだ。もちおはいない。でもいないとは到底思えない。見えない部屋のどこか、表のどこかにいる気がする。「魂が見守ってくれている」といった意味ではない。肉体を伴う人としてのもちおが、どこかすぐそばにいる気がしてならない。

 

「もちお、はてこはね、あの辺にもちおがいる気がするんだよ」と見えないもちおに話しかける。「もちおはここにいると思ってんの。はてこのすぐ近くに。でもね、いまはね、生きてた頃のもちおが廊下の奥のとことか、書斎とかベッドとかにいる気がするの」左肩のあたりにいるもちおがうなづいている気がする。「はてこはさみしいよ」

 

わたしもこの年になるまで人並みに親類縁者、友人知人の死別を経験してきた。でも、今回のもちおの死はそのどれとも違うきつさがある。

 

ペットの死が人を深く傷つけ、ときに病ませるまでになる理由が少しわかった。ともに暮らす存在がいなくなると不在を意識せずに済む場がどこにもない。家中に不在がある。二人掛けの椅子の正面に、ペアのカップに、鳴らない電話に、増えない洗濯物に、減らない食糧品に不在がある。そこに混乱が入り込むと、どうしても、どう考えても、肉体を持ったその人がいまそこにいるはずなんだけど、おかしいな、どこだろうという気がする。

 

不滅の魂としてのその人ではない。温かい血肉の通った身体を持った、触ることのできる人、息を吐き、声をもっている人が、眼差しを交し合うことのできるその人が、一緒に暮らしているこの家のどこかにいる、外出から帰ってくる、それこそが現実だと思えてならない。そしてこの強烈な現実感は身体にも心にも耐え難いほどの痛みをもたらす。

 

わたしは葬儀のあと何度かこうした苦痛をもたらす悲しみの威力に晒された。そしてそのあまりの痛みに大泣きしながら衝動的に頭を壁に何度も打ち付けて「何もかも終わらせてしまいたい」と思った。以来、わたしは二人で暮らしていた日々を思い出すことを意識して控えるようになった。とても耐えられない。子供の頃、耳かきに夢中になった母がわたしの耳の奥にヘアピンを突っ込んでものすごく痛い思いをしたことがあった。わたしはあまりの痛みに震え上がり、耳かきを怖がるようになった。耳かきは気持ちがいい。でも油断すると大変なことになる。

 

もちろん考えるという意味ではもちおのこと、二人で暮らしてきた日々のことを思い出さないでいることはできない。でも目を滑らせて長文を斜め読みするように、景色を漠然と眺めるように、もちおともちおにまつわるたくさんの思い出をいわば箇条書きで整理し、それらを彩る感情に目を背けるコツをあっという間に身に着けた。

 

「悲劇のつらいところは楽しい思い出を思い出すことが出来なくなることだ。楽しい日々を思い出せば悲劇がいっそうつらくなる。だから人は悲劇が起きると楽しい思い出を同時に失うことになる」とアガサ・クリスティーが自伝に書いていた。アガサが失ったのは他の女性を愛して去っていった最初の夫だったが、この気持ちはよくわかる。楽しい日々の楽しさ、愛しいものの愛しさが大きく、共に過ごした日々が長く、思いが深ければ深いほど失ったときの痛みと苦しみは増す。失うのはそれまでの日々だけではない。二人で生きるはずだった未来と、かの人が愛した自分自身もだ。

 

ドラマ「ダウントン・アビー」で夫を失った女性が「彼と一緒に彼だけが見つけてくれた私の最良の部分も同時に逝ってしまった気がする」と話す場面がある*1。ほんの三ヵ月前、7月にもちおと二人でこのドラマを見たときは「なにいってんだ」と思った。*2でもいまはわかる。それが最良かどうかは別として、もちおは他の誰も愛さなかったわたしを愛し、わたしはもちおの前でだけ見せる自分を持っていた。もちおにだけ通じる冗談があり、もちおの他の誰ともやらない遊びがあり、もちおにだけする愛情表現がたくさんあった。もうそれらを他の誰に向けることもできない。

 

わたしは夫を失ったけれど、共に暮らす家族を失うということは大なり小なりこのようなものだと思う。無視することのできない強烈な不在、自分自身の過去と未来、そして自分自身を失うこと。

 

どれほど深く愛していたかとは別に、ともに暮らす相手を失うことは離れて暮らす人を亡くすのとは少し違う。離れて暮らしている人には違う生活がある。過去は部分的に重なり、未来がどの程度重なるかはわからない。日常の中にはもともとかの人の不在が存在しない場面がたくさんある。その人とのあいだでだけ存在した自分がどの程度の重みを持っているかは関係の深さによる。けれどいずれにしてもその自分が私生活の大半を占めていることは滅多にない。

 

相手が人でなくてもそうだ。愛犬と日々散歩に出かけていた人は首輪や餌入れを見て自分の人生が変わってしまったことを思い出すだろう。そして愛犬にだけ見せた無防備で馬鹿らしい言動をする自分自身が、愛犬とともに去っていったことを知る。こうなってみるまでわたしはペットロスが時に人の人生をそこまで狂わせる理由がわからなかった。いまは少しわかる。襲い掛かる不在の強烈さの差は相手が人か動物かで決まるわけではない。愛するものを亡くすと同時に過去と未来と自分自身を亡くす点では相手が人かどうかは関係ない。

 

もちおはわたしにとってただ一人の家族で、長年の親友で、夫だった。もちおのことと、二人で生きた時間のことを、いいことも悪いことも何もかも覚えていたい。けれどもいま鮮やかな思い出を正視するには現実が残酷すぎてとても耐えられない。まともに見てたら生きていけない。もちおの温かな血が流れるやさしい身体がここにないことはどうしてもつらい。あの声が聞けないこと、下手くそなキスがもうないことがつらい。だからといってもちおがいるふりで「もっちゃーん」と誰もいない部屋で二人で暮らしていますごっこなんかやると不在が襲い掛かってきて死にたくなる。


旅路の先は長い。

 

 

死別後の里程標が段階的に出ている本。「いまどの辺かな」 と思いながら読んでいる。

*1:ネタバレに配慮するわたし。

*2:だってあの人にそれを忠告してくれた人こそ彼女の最良で最善の部分を子供の頃から愛してくれていたでしょう。