最期の朝のこと

8月29日の朝、もちおの身体は冷えていた。

前日まで熱が下がらず、冷凍庫で凍らせたハンドタオルに軽く水をかけて絞って軟らかくしたものを取り替えながら額に乗せ続けていたが、朝目を覚ますと驚くほど全身が冷えていた。

わたしが朝までまとまった睡眠を取れたのは病室に泊まり込みはじめたこの二週間ではじめてのことだった。夜毎に呻き苦しみ、ベッドの上で起き上がっては姿勢を変え、立ち上がっては倒れるもちおを小一時間ごとに手取り足取り介抱するのは辛かった。

しかしこの夜わたしが起こされずに朝を迎えたのはもちおが安らかに眠っていたからではなく、自力で動くだけの力がもう残っていなかったからだ。

もちおはもう何日も目蓋を閉じることも、顎を閉じることも出来なかった。ヒアルロン酸入りの目薬を点眼しても瞳は白く濁り、白眼は黄色く干潟のようで痛々しい。浅い息を吐き続ける開きっ放しの口は渇き、保湿スプレーをすれば喉が詰まる。それなのに水を飲むと塞がった胃に詰まる。もちおの胃は外からのものを受け付けないだけでなく、絶えず出血しながらその血を腸へ送ることもゆるさない状態になっていた。もちおは体力が尽きるまでたまり続ける血反吐を吐き続けた。

「ガンの痛みは99パーセント薬でコントロール出来ます」とあちこちで読んだ。もちおは残り1パーセントの、忌まわの際まで痛み苦しむ側にいた。がんの痛みはコントロール出来ますなんて詐欺のような話だ。なるほど「がん」の痛みは鈍らせられることもあるだろう。けれども末期がんの苦しみは多臓器不全の苦しみであり、すべての苦しみを感じないようにするには死ぬしかない。

特に苦しかったのは腹水で、腹水の扱いにはもちおの意識があった頃から再三再四苦労した。もちおがもう家には帰らないと決めたのも、最初のホスピスを二日で転院すると決めたのも腹水のせいだった。わたしは最初のホスピスで、モルヒネで朦朧としながら耳を塞ぎたくなるような呻き声をあげるもちおのベッド脇に座り、医師と深夜に白熱した議論をした。

もちおはその日の午前に長く世話になった大学病院を退院し、治療目的ではない入院をするためストレッチャーで運ばれてきた。

前夜もちおはわたしを起こして二度も自販機に足を運び、退院するときは医師らに心のこもった悲痛な挨拶をした。しかしたった半日の間にもちおは刻一刻と増えるモルヒネにより、夜半には自力で医師と渡り合うだけの体力も気力も思考力もなかった。

呂律が回らないほどの薬を打たれながら、もちおが唯一明確に感じ取り、これ以上ないほど明白に表現したのは七転八倒して声をあげずにおれないほどの腹水による苦しみと痛みだった。

腹水を抜いてほしいと懇願するわたしに痛み止めさえ追加すれば患者は苦しみを感じないと言い張る医師をこの場で殴り殺してやりたいと思った。しかし医者殺しでもちおの痛みが軽くなるわけではない。

わたしは医師を殴る代わりに本気の怒りを込めた静かな意思表明を繰り返した。傲岸不遜な夜勤の医師が怒りとともに退場したあと、一計を案じた看護士が身の危険を冒して担当医を呼び出してくれた。担当医は脅しと甘言を繰り返し、薬の量を増やすことで手を打たせようとしたがわたしは断固応じなかった。とうとう医師はわたしに「直近の死」と手書きした同意書にサインするよう要請し、ようやく腹水を抜きはじめた。

大掛かりな外科手術でもするような緊張ぶりとは裏腹に、彼の穿刺のやり方は大学病院でも、後に転院したホスピスでも、お目にかかったことのないずさんなものだった。「私だって腹水は抜いたことがあります」「大学病院がよければどうぞ戻ってくれて結構です」と場に不釣り合いな対抗意識を燃やしていた理由がわかった。医師は不慣れな治療から逃げ回り、それをごまかしていただのだ。翌朝妹の機転と全面的な協力で転院手続きをはじめた。*1

転院先の病院で最後に腹水を抜いたのは8月28日のことだった。このときはこの病院へ移してくれた恩人である妹と揉めた。

まぶたを閉じることさえ出来ないもちおが痛みのあまりベッドから起き上がる。その苦しみがどれほどのものか。痛み止めを増やしても鎮静剤を増やしても腹水の痛み苦しみは消えない。

そう説明するわたしの話を薬嫌いの強迫観念扱いされるのは地団駄を踏みたくなるほど腹立たしく悔しい。こんな議論をしている場合ではない。一刻も早く腹水を抜いて楽にしてやらなければならないのに。

「ご主人はお腹の皮が伸びない体質です。妊婦さんのように伸びる人は腹水が溜まってもそれほど苦しくない。ご主人の場合はお腹が膨らまないからわからないけれど、水は内側に向かって大量に溜まっている。相当苦しいはずです。この状態で痛みを感じなくするには、恐らく二度と意識が戻らないレベルまで薬を増やすことになるでしょう」

日本初のホスピスとして多年に渡って末期がん患者を見てきた医師はそう言った。そうだよ。がんの痛みとは別の物理的な苦しみなんだよ。内臓が圧されて苦しいと、息ができないと、のたうち回る姿を幾晩か見てごらんよ。

すでに痛み止めは意識を失うほど投与されている。これ以上打てというのは実質息の根を止めろというのと同じだ。そんな重大な決定を、なぜわたしともちお以外の誰かに強要されなければならないのか。

この一件で献身的だった妹との間に取り返しのつかない亀裂が入った。この亀裂はもちおが息を引き取った8月30日の夜、妹が秘密裏に用意した葬儀場をわたしが断ったとき更に深まることになる。

もちおは医師の理解を得て腹水を抜いてもらってからのたうち回ることがなくなった。起き上がることも、声に反応することも、手を握り返すこともなくなった。もちおはそこにいたけれど、この人物はどこまでわたしが知るあの愉快で愛情深く聡明な男性なのか、わたしにはわからなかった。

わからなくてもこの身体はもちおのものだから大事にしよう、とわたしは思った。

「はてこさんをしあわせにしたかったんよ。はてこさんがしあわせやったらそれでよかったんよ。それなのに、俺ははてこさんをひとりにしてしまう。はてこさん、ごめん。ごめんけどしあわせになって」
もちおはまだ意識がはっきりしていた頃に家でそういって大声で泣いた。あの日のもちおに免じて、白眼を剥く骨と皮だけのこの男に出来る限りのことをしようと思った。


8月29日の朝の空は穏やかで美しかった。目を覚ましたとき自分が朝が来るまで眠ってしまったことに驚き、肝が冷える思いをした。眠っているあいだにもちおは苦しんではいなかったか。

もちおは前日と同じように目蓋を半開きにして、だらんと伸びた顎の隙間から浅い息を繰り返していた。もちおの手足はただならぬ冷たさを帯びていた。これまで何度か触れたことのある死人の冷たさだった。

一日中もちおはどんどん冷たくなっていった。わたしはただひたすら手足をさすり、温め続けた。そして耳元でささやいた。もっちゃん、もっちゃん、だいすきよ。

もちおは日付が8月30日になってまもなく息を引き取った。安らかとは言い難い、筆舌に尽くしがたい苦しみと痛みのあとの情け容赦のない死だった。

*1:妹はこの夜の様子をTwitterで実況していたのを見て電話をくれた。