運のお店

「運も才能のうち」というが、運という言葉をある種のステイタスのように思っている人がいることを、ここ数日のブコメを眺めていて気が付いた。

 

運や才能は天与のものであるから、本来誇るいわれはないし、なくても恥じることはない。本人の努力と無関係に持って生まれたもの、金持ちの家に生まれたとか、容姿や知性に恵まれるといったことはみな、感謝こそすれ自慢の種にはならないとわたしは考えている。少なくとも表向きの建前では世間的にもそうなのではないかと思っていたが、そうでもないらしい。

 

運ではなく縁だと書いている人もいたが、両者にどれほどの違いがあるのか疑問に思う。少なくともわたしの中では運も縁も努力で獲得するものではなく僥倖であるという点で同じだ。いずれにせよ人事を尽くして天命を待つしかないことが世の中にはある。

 

運がない、縁がない、才能がないというのは望みの店が開いていないようなものだ。

 

店に出入りして喉から手が出るほどほしいものを手にしている他人を見るのは悔しい。なんとか店に入れてもらおうとあの手この手で手を尽くす。ここで運が開けることもある。つまり店が開いている時間に店に入り、望みの商品の在庫があり、所持金も足りるという僥倖に恵まれる。こうした経験をすると「努力が実った」と思うかもしれない。

 

しかし店に圧力を掛けて自分が望む時間に店を開けろということはできない。通りすがりに店をのぞいた一見者が望みの商品を買っていくのは不当だとクレームをつけることもできない。運が開けるかどうかはやはり自分の手を超えたところにある。

 

ところが、あの手この手で望みの品を手にしたという結果をもって、同じことをすれば同じ結果が出るのではないかと考える人がいる。偶然それを手にしたという話は歓迎されない。人はわずかな希望に望みをかけるとき、苦労を代償だと考えがちだ。安穏としていては貴重なものは手に入らない。代償を払えば手に入る見込みはあがる。

 

雑な一般論が重宝がられる理由がここにある。運がないことは如何ともしがたい。しかし然るべき段階を踏めば誰でも一定の結果が期待できる、あるいは「可能性が上がる」と思えば希望が持てる。これは気休めになる。気休めは馬鹿にならない。気が休まらないと人は死んでしまう。

 

そして雑な一般論の適用範囲を広げ、諸事情を顧みず他人に提言したくなる理由もここにある。お百度を踏み、店が開いていますようにと願掛けをしてきた人は「あの店のあれがほしいなあ」と指をくわえている人を見れば腹立たしくもなるだろう。

 

「一般論とは主語を大きくすることだ」ともちおがいった。対象を明確にした適切な一般論は未知の脅威に立ち向かう処世術である。実際こうした知識なしに世の中を渡るのは難しい。何もかも試して経験して身をもって学ぶわけにはいかない。

 

一方、雑な一般論は対象が曖昧で、的外れで見当違いなものである。「大工は何を見ても釘だと考える」という言葉があるが、主語を大きくして現実に即さない見当違いなことをいう。これの行き着くところは無知と偏見の助長だ。

 

わたしは生涯を左右する伴侶を持つという意味での結婚や、生死にかかわる妊娠、出産といったものを一種の畏怖の念をもって受け止めている。どれほど有能な人格者、あるいは知力の劣った下劣な人物であったとしても、生涯でこれらをどのような形でえることになるかは、究極的に個人の力で操作できないものだと思っている。早いものが競争に勝つのではない。

 

それと同時に、望みの店が開いていてもいなくても、どこかしら開いている店は常にあり、そこで予想外のお宝を手にして小躍りできる見込みはいつもあると考えている。何かしらの運に恵まれた人が、別の面では諦めるよりほかない商品を心に抱いていることもある。あることに「運がない、縁がない」とは別のことに「運があり、縁がある」のと同じだ。

 

家族にステージ4のがん患者なんか出てごらんなさい。祈るよりほかどうしようもないことばかりの世の中で、よくもこれまで生きてこられたことか、どなたのおかげか知らないけれど、自分はなんて恵まれていたことかって、毎日思うようになるわよ。