本とラジオと人との出会い

 このツイートを読んでずばり言い当てられたと思い、反省。近年書棚がまさにそんな感じの本に席巻されつつあった。本との出会いは人との出会いと似ている。そう考えるとこうした自己チューニング本ばかり選ぶのは、仕事と暮らしに役立つ話をする人かどうかで付き合う人を選んでいるようなものだ。これは偏る。

 

かつてわたしにとって本とは物語の代名詞であったのに、ここ数年は物語を読むためにお金を払って本を買うのは贅沢だと考えていた。そもそも本を買うこと自体が贅沢だ。買ったら元を取らなければいけない。この本を買えば料理のレパートリーが増える、掃除が捗る、仕事の効率が上がる、健康状態がよくなる。そうすれば出費が減って貯金が増える。これが「本を読んで元を取る」ことだといつの間にか思い込んでいた。漫画や小説を買うこともあったが、こうした買い物は自制しきれなかった結果の無駄遣いだと考えていた。

 

そうしたHow to本は本を愛し、著者に好感を持って買うわけではない。装丁や文字の美しさを眺めるだけで楽しく、文章の面白さに何度も引き込まれて選ぶ本とは違う。己の欲を満たしてくれそうだという期待で選ぶのだ。情報量が多ければ得した気になり、同じことを人に習ったらいくらかかる、書籍代と比較していくら得だと変な金勘定で本の価値を測る。貧しく浅ましい。もとより苦手意識と問題解決のため、自分に学習ドリルを押し付けたようなもので、好きで買った本ではないから身につかない。道理で心も財布も豊かにならないはずだ。

 

皮肉なことに、いまの自分の人生観を養い、現在の暮らしに役立っている知識や教養の大半は目的をもって学んだものではない。抑えきれない好奇心から貪るように読んだ本、日常生活からかけ離れた学問の専門書、病床の憂いを晴らしてねと友人が届けてくれた彼女の愛読書の数々、タイトルにひかれて読んだ小説や挿絵にひかれて集めた絵本。こうした心に深く残り、人生を変えるような本はしかし「お役に立ちます!」「お得です!」という顔をしていない。だから欲の皮が突っ張っているときは目の前にあっても視界に入らず素通りする。

 

切羽詰まった問題を抱えているときほど藁を掴むように薄っぺらい人生指南にすがりたくなる。これさえあればすべてOKという何かに飛びつきたくなる。実行すれば役立つようなことが書いてあっても、心を失くしているときは地に足をつけて暮らしを顧みる余裕がない。自信がないときの助言の数々は自責の念を煽るばかりで、何がほしいのかすらわからないまま、今度はご都合主義のフィクションに走る。

 

こういう本とのつきあいは、よくないなと思った。本を人に例えるなら、非現実的な期待を煽るグルと虫のいい話ばかりする法螺吹きを求めてさすらっているようなものだ。まともなつきあいじゃない。

 

暮らしに直結しない本、元が取れなさそうな本を読もう。贅沢をしようと思った。いずれにしてもわたしが抱える問題の解決策は観測範囲には見当たらない。本とラジオと人との出会いのいいところは、頼んでもないものを出してきて、知らない世界を見せてくれることだ。人と知り合うには時間もいるし、相手の都合もある。本は比較的すきなときに向き合えるし、手が届くところにある。

 

そう思っていつか読みたいと思っていた本を立て続けに何冊か買った。図書館にもいった。そしてブックカバーを6枚縫った。表紙が気に入らなくて読んでいない本がこれで読めるようになった。本は装丁も大切なのだ。好きでもない本から情報だけを抽出して技能を身に着けるなんてわたしにはできない芸当だといまさらのように気づいた。