消しゴムの国の斉藤由貴

斉藤由貴のニュースをちょいちょい目にしたので「ネコの手も借りたい」と「透明な水」を読み返した。長い間斉藤由貴について自分の中で落としどころが見つからなかったのだけれど、斉藤由貴は本を愛し演劇を愛する猟奇殺人趣味のないラムジーボルトンだと考えると腑に落ちる。

 

「透明な水」にはキャベツ畑で生きる百姓の孤独がよくあらわれている。とくに親友がほかの少女と仲良く話していたことの復讐に、親友のスカートに赤いマジックで経血のシミを書いて片思い中の少年の前で指摘するという話がラムジーボルトンぽい。ほかにも外車ディーラーに勤めながら無垢な乙女を装って高級品をせしめる女の話など人を人とも思わない無邪気で素直で純粋な少女が多数登場する。

 

一見ごく軽い当たり障りのない短編集のようだけれど、出てくる人、出てくる人、頭がおかしい。*1「人間ってこういうところがあるよね」ではなく、人好きのする魅力的な人物が、内心では相手を自分と同じ人間だと思っていないとはどういうことかが描かれた話。

 

消しゴムの身を思いやるには意識的な努力がいるだろう。消しゴムに思いやりなんて自動的に働かないから機械的にルールを守っていくしかない。無神経とも違う。相手が消しゴムだから気を抜けば消しゴムに見えるし、良識と想像力を働かせて礼儀をしめすことはできるけれど、消しゴムは消しゴムとしか思えない。いい匂いのするきれいな消しゴムと汚れた消しゴムくらいの区別しかないなら誰だって気に入った消しゴムを選ぶに決まっている。

 

斉藤由貴が描く世界では私以外の人物は消しゴムくらいの価値しかない。消しゴムと消しゴムの物語ではない。私と消しゴムの物語だ。子供が好きな消しゴムを躊躇なく選ぶように、そしてちびて汚れた消しゴムを嫌うともなくその辺に忘れてしまうように、登場人物たちは好きな人には一直線に、嫌いな人からは一目散に遠ざかる。

 

斉藤由貴は少し前に加藤一二三と「アウトデラックス」で話していたが、斉藤は加藤を一心に見つめながら、何の下心もない真剣な口調で「好きです」と繰り返していた。あの言葉はお世辞でもなんでもない心からのものだと思う。斉藤のような女性からあんな風に好きだといわれたらドキッとするだろう。

 

彼女からそんな風にあなたが好きだといわれた人は男女問わず少なくないと思う。まるで子供のようだ。子供がお気に入りの消しゴムを見つけたときのような真剣さだ。斉藤由貴を純粋無垢で子供のような人だという人がいて、そんな風に天然を装う計算高い女だという人もいる。彼女の作品から受ける印象は、純粋無垢な子供が消しゴムを見るくらいの気持ちで人を見てあれこれ考えているようだということだ。 

 

「ネコの手も借りたい」には斉藤由貴が母からあなたは恋に酔い、自分のお遊びに相手をつきあわせているが、相手がそれを望んでいるとは限らないと指摘された話が出てくる。同じ時期、斉藤は「自分の時間はぜんぶ自分に使いたい、大人になりきれていないんだと思う」とインタビューに答えているが、これは成長の一過程の話ではない。消しゴムのために自分を差し出す気になれないのは当たり前だ。

 

かつて斉藤由貴が詩や歌にのせて表現した孤独とは成長期の一過性のものではなく、消しゴムに囲まれて暮らす多感な人物の諦観、いわばアリスの孤独だ。演技を通じて消しゴムになってみる、消しゴムの消しゴムっぷりを表現することで、一時的に消しゴムと同化しているのかもしれない。

 

今回の件でただひとつ意外だったのは、ことロマンスに関しては潔癖症の理不尽冷めエピソードを多数残してきた彼女がなぜ美意識の欠片もない写真を残すことをゆるしたのかということ。そこだけは懐深く大人になって面白い消しゴムもお気に入りにいれるようになったのかな。

 

と、いうような話をする相手がもちお以外にいないので、なんでもかんでももちおに話している。芸能界の話題なんか当たりさわりのない話のようだけれど、斉藤由貴ラムジーボルトンだと思ったら腑に落ちたといえば激高する人もいるかもしれないし、スローンズを知らない人だと何のことだかわからないし、そもそも世代的に斉藤由貴の遍歴を知らない人もいまでは多い。話し相手を探すのはなかなか難しい。

  

ちなみに斉藤由貴の歌ですきなのは「終わりの気配」です。

*1:例外はスタイリストの女性の話。

広告を非表示にする