ヘイトスピーチとは「弱いものいじめ」のことではない

最近、いわゆる反差別の人たちと話していて、ちょっとわたしと考えが違うなと思うことがあったので、書いておく。

 

わたしはヘイトスピーチを強者から弱者へのもの、要するに「弱い者いじめ」と解釈していない。実際wikipediaヘイトスピーチの項目には「人種、出身国、宗教、性的指向、性別、障害などに基づいて個人または集団を攻撃、脅迫、侮辱する発言や言動のこと」とあり、マジョリティからマイノリティに対するものと限定していない。

 

「大国や多数派は属性ごと忌避し、断罪してよい、ときに激しい攻撃や糾弾することさえ正義で、少数派に対しては無意識のものもふくめていっさいの攻撃はゆるされない」というなら、これは歴然とした差別だ。多数派を構成するのは少数派同様、ひとりの人間にすぎない。大国に生まれたこと、多数派に属す生理的、文化的な特徴をもっているというだけで、個人の尊厳を踏みにじられてよいわけがない。マイノリティ同様、マジョリティも一枚岩ではない。

 

グレン・サヴァンの小説「 ぼくの美しい人だから」には白人女性のノーラがユダヤ人の祭りハヌッカに招かれ、「白人は反セム系だ」という話を聞かされる場面がある。ノーラ以外のメンバーは全員ユダヤ人。彼らにとって白人社会のユダヤ人排斥主義はいつもの話題で、年寄りはとくに寄ると触るとその話題で怒りを顕わにしている。ノーラはこの話題にちょっとした質問をする。少し長いけれど、考えさせられる場面なので引用する。

 

「そうすると、あなたの考えでは、この国でユダヤ人を憎まない人ってどんな人?」
ホラウィッツ氏*1は少し考慮をはらった。「ユダヤ人だ」
「ユダヤ人の一部だよ」と、ホラウィッツ*2が訂正した。
「それなら、わたしを反セム派だと思っているのね」と、彼女はいった。
 ノーラがとくに非難するでもなく、さらりといってのけたせいか、一同が反応するのに少し間があいた。が、その意味が浸透するのに時間はかからなかった。ホラウィッツ氏がきまじめな顔で彼女を見た。
「冗談にもそういうことは口にすべきではないな」と、彼がいいきかせた。「ここにいる者は誰も、遠回しにもそんなことはいっておらんのに」
 ノーラは笑った。「だって、そうじゃない?あなたがいまいったのよ。ユダヤ人じゃない人間はユダヤ人が嫌いなはずだって。ね?わたしはユダヤ系じゃないから」
 (中略)
 みずから蒔いた種で立ち往生したホラウィッツ氏はため息をつき、しばし目をつぶってから、品定めをするようにノーラを眺めた。「いいだろう」と、彼はいった。「きみはユダヤ人を憎んでいるのかね?」
 ノーラが笑った。「そうね、マックス*3はわたしが憎んでいると思っているかもしれない」といって、ふざけるように彼に肩をぶつけた。「でも、マックスに非難されるまでは反セムなんていう言葉があることも知らなかったのよ、わたし」

 

ぼくの美しい人だから 344~346頁

 

LGBT関係の用語に「アライ」とよばれるものがある。これはLGBT当事者ではないがLGBTを支持する人たちのことだ。

石壁に百合の花咲くで全世界のLGBTニュースを更新し続けているみやきちさんは、ゲイを激しく糾弾するホモフォビアを舌鋒鋭く批判し続けている。けれども「非LGBTはみんな馬鹿」といった書き方はけしてしない。非LGBTにはLGBTとともに戦うアライもいるからだ。

 

わたしは男社会の構造を支持しない。女性に対して男性ならではの不愉快で失礼な態度をとる人は大勢いる。こういう人が一日も早く生き方を改めてくれることを心から期待している。しかし男性という性そのものは女性の性と同様尊重されるべきだと信じている。いうまでもなくフェミニストには男性もいるし、男社会を支持しているのは男性だけではない。

 

あらゆる場面でマジョリティとして万全の後ろ盾を持つ人はいない。「マイノリティを虐げ、あるいは踏みつけていることに気づかないマジョリティどもが、いつか完全にマイノリティに屈する日が来ますように」と望むなら、それは互いに尊重しあうフェアな社会の到来ではなく、クーデターによって差別構造を逆転させることを願っているにすぎない。わたしは嫌だな、そんな社会。

 

いうまでもなく相互の力関係は配慮する必要がある。マジョリティからマイノリティへの攻撃をマイノリティからマジョリティへのそれと同等に考えることはできない。「お父さんなんか死んじゃえ」という子供と、「おまえなんか死んでしまえ」という父親を同列に語ることができないのと同じだ。しかし一律「親」と「子」で括ってしまうと、「親」に老齢や体力、資力の問題で子供のいうなりにならざるをえない人が含まれること、「子」に成人して親に大きな影響力を持つ立場にある人間がいることを見落としてしまう。属性を理解することは現実認識を助けるけれど、個人を属性で括って物事を判断しようとすると見誤ることがたくさんある。

 

ひらたく考えても、「マジョリティはぼこぼこにしてもいい」と思っているマイノリティを支持したいとは思うマジョリティは、マジョリティとしての罪の意識に囚われた人か、自分を名誉マイノリティだと思っている人だけじゃないだろうか。これでは連帯を強めるどころか分断をすすめるだけだ。

 

わたしは個人として自分に失礼な態度を取る人をゆるさない。そういう態度は非難してしかるべきだと思っている。でもそういう人を非難するときに、たまたま失礼な人と同じ属性を持つ人を巻き込んで、「だから○○は!」とぎゃーぎゃー言わないようにという注意はしているつもり。坊主と袈裟の区別は大切。わたしも巻き込まれたくないからね。

kutabirehateko.hateblo.jp

 

*1:主人公マックスの友人の父親。ユダヤ人

*2:ホラウィッツ氏の息子でマックスの幼馴染み

*3:主人公でノーラの恋人。ユダヤ人

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