マジもんの底辺

「女に相手にされない俺たちこそ真の弱者だ、弱者男性を気づかえないフェミは偽善者だ」という話題がでたとき、本来の意味で社会的弱者である男性の話を書いた。

なぜ弱者男性は弱者女性より深刻に詰んでいるのか - はてこはときどき外に出る

今回は本来の意味での社会的底辺とは何かを書く。

 

底辺とは本来ピラミッド型の社会構造の底を支える人々のことだ。階層を上がるにつれ、望むと望まざるとによらず、踏まれる側から踏みつける側にまわることになる。*1人身売買の被害者としてカカオ農園で働かされる子供は底辺におり、チョコレートを贅沢品だと考えることもないのが頂点の子供だ。頂点の子供は底辺の子供の犠牲のもとにチョコレートを楽しむ。この構造のどこに底辺を憎み蔑む理由があるのだろう。また底辺の子らは暴力的で残酷で労働意欲も向上心もないものだといえる根拠がいったいどこにあるだろう。

 

労働環境や生活レベルを向上させる機会があるならそれは幸運なことだ。教育がそのための力になることは確かにある。

 

チベット自治区を支援し、中国政府による弾圧に反対する活動を長く続けている友人がいる。中国政府はチベット自治区チベット人向けの学校を持つことを禁じており、チベット人たちは母語であるチベット語で教育が受けられない。その結果は学歴で足切りされる職業に就けないどころの話ではない。彼らは非常に貧しいのに、若者たちはiphoneを二台持ちしているのだという。

 

「どうして?!」
「売りつける人がいるってことですよね」
「字が読めなかったらネットも見られないし、お金ないんでしょ?」
「そう。どうやって買ったのか…」

 

教育がなければ契約書は読めない。計算もできない。そして法に訴えることもできない。教育がないとは自分たちにどんな権利があるのかを学ぶ機会がないことであり、自分たちの権利を訴える方法を知る機会がないことだ。これはどれも命にかかわる。人道的観点から切実に支援の必要がある。

 

底辺社会で暮らす人々に支援が必要なのはこうした権利と機会の制限、そして差別との共闘という点であって、性根が悪いとか自頭が残念だとかは階層を上がったところで治らない。これは断言できる。

 

感情にまかせた恥知らずなエントリーを上げた人物を指して「底辺出身者だから理解してあげよう」とか、「最悪な時の自分を通して底辺が理解できた」とかいうのは差別の再生産でしかない。

 

チベット自治区を支援している友人は、教師ぐるみの陰湿ないじめによって私立小学校を退学させられた。彼女は小学校から私立校に入学する家柄であることを誇りもしないし、退学させられたことを恥じてもいない。ただ彼女は何らかの形で輪から排除される人たちにとても敏感だ。彼女はチベット人の子供に教育費を送り続けている。それは俗悪で野蛮な底辺の子らを憐れむためではなく、子供たちが自分の権利を守り、生き抜くためだ。わたしは彼女の家柄や学歴、収入ではなく、こうした気高い精神を尊敬する。

 

低学歴なものが社会的構造の底辺に落ち着くとは限らず、高学歴を持つものが社会的な頂点に立つとも限らない。ただ無邪気に搾取の構造をありがたがり、既得権益を持つ側に望まれる資質を身に着けることで差別を内面化して、さっそく下位をつくって踏みつけたり憐れんだりすることは、人間的レベルとして最低の部類であることは覚えておいたほうがいい。そして自分がどこに位置するにしても、階層と人間性を関連づけるのは非常に危険なことだと自覚しておく必要がある。

 

チベット人は底辺だ」といえば「それは人種差別だ、彼らは高潔な精神と文化を持っている」と憤る人がいるかもしれない。そういう人は「底辺」という言葉が社会構造と人間の尊厳をいっしょくたにしたネガティブなレッテルとして機能していることを自覚した方がいい。

 

もちろんわたしは言わないよ。だって「底辺」がもはやれっきとした侮蔑語で、人さまを公然と「底辺」呼ばわりするのは恥ずかしいことだって知ってるからね。

kutabirehateko.hateblo.jp

 

*1:単に数が多い少ないという話では多い側から少ない側に回ることをサクセスアップとは考えない。