小公女コンプレックス

「底辺とはつきあえないという底辺出身者に理解を」というエントリーを読んで、「本当ならつきあうような相手やないんよ」が口癖だった祖母を思い出した。

 

祖母は藩の御殿医の娘で、蝶よ花よと育てられた。両親を早くに亡くしたけれど、子供好きの夫婦からぜひにと乞われ、女学校へいって嫁ぐまで育てるのに十分なお金とともに養女へ出された。ところが「もちつけん金を持ったもんやき、そこの旦那さんが小倉から芸者を呼んだりするごとなってね」。夫婦は徐々におかしくなった。

 

この頃のことを祖母は原稿用紙に書き残している。ある日祖母が家に帰るとやさしかった継母が明かりもつけずに泣いていた。継母は祖母をきつく抱きしめて、「おばちゃんといっしょに、死のうか」と言った。祖母は「おばちゃん、死んだら痛いとよ」とこたえたという。夫は祖母の財産をすべて使い切り、夫婦は離縁することになった。祖母は朝鮮へ出され、ここでとても苦労した。

 

「油を流したような真っ黒な海を、風呂敷包みひとつで船に乗って渡ったんよ」

実母は祖母からこの話を何度も聞いた。玄界灘を渡ったあとの暮らしは原稿に残されていない。残された原稿のはじめの頃の、黒塗りの人力車の足載せで遊ぶ平和で呑気なかわいらしいお嬢ちゃんの人生こそが祖母にとって本来の姿であり、女中同然に働かされた十代のころのことは書き残す気になれなかったのかもしれない。

 

やがて祖母は兄姉のもとに生まれた甥姪の面倒を見るために帰国した。*1兄姉たちは炭鉱で財産を莫大なものにし、一度も貧困を味わうことなく代々議員を出す一族として名をはせた。みな上品で鷹揚な人たちだったが、祖母はひどい俗物だった。

  

わたしが幼かったころの祖母は宝石や着物、高価な手作り家具や骨とう品が好きだった。祖母の口癖は「これは上等よ!」であった。菓子であれ服であれ小物であれ、祖母はそれがいかに質の良い高級品であるかを強調した。たとえそれが近所の商店街で買った大量生産のものであっても、祖母は「これは上等よ!」と得意げにいう。そして近所の人たちとは関わろうとせず、嫁が出入りの業者や隣近所と接点を持つと「本当ならつきあう相手やないんよ」と咎めた。

 

いま思えば祖母の「上等なものに囲まれた由緒あるお医者の娘」という自己像は、バーネットの「小公女」の中で、セーラが自分をプリンセスだと信じることで誇りを失うまいとしたように、孤立無援でプライドを守るための切実な武器だったのだろう。そうした苦労をしたことがないわたしは祖母の苦労が後年の口癖や生き方に影響しているとは気づかなかった。旧家の跡地を訪ねる祖母を見ても何とも思わなかったし、父を医者にしようと躍起になっていたと聞いても「うへぇ」としか思わなかった。女学校へいくはずだった話を聞くたびに「もういいじゃん」くらいに思っていた。

 

祖母はわたしを心からかわいがってくれた。年子の弟の世話に追われる母も、孫娘を溺愛する祖母とおばあちゃん子な娘を歓迎した。祖母が書き損じの和紙で姉様人形を作ってくれたこと、二人で風呂に入ると湯船に手拭いを浮かべて「坊さん、坊さんどこいくの…」とわらべ歌を歌ってくれたことを懐かしく思い出す。口八丁、手八丁で頭のいい人だった。祖母があれだけ強調した藩の御殿医の娘というルーツはよくも悪くもわたしの祖母への思いに影響しなかった。嫁姑バトルで祖母とさんざんやりあった母は、姑が夫の暴力から自分を守ってくれたことをいまもよく話す。「小さな体で覆いかぶさるようにしてね、『殴るなら私を殴んなさい!』って庇ってくれたのよ」。

 

わたしは公立を底辺だと思う環境にいなかった。仲のいい友達が中学から私立に進学したけれど、彼女はとくに注目されることもなく、誰にもいじめられなかった。小学校時代の友達や先生を思い出せばいろいろな人がいたなあ、という気持ちになる。貧乏人の子も金持ちの子もいたし、賢い子も馬鹿な子もいた。とてもひとくくりにはできない。

 

学校になじめず、頼りになる大人を持てなかった子供が、大人になって全面的に母校を否定することはある。もちおも転校先でひどいめに遭った口で、学生時代の思い出は苦々しいものだ。もちおの場合、彼らと自分を差別化することは出身地の違いだった。いまでも「あそこの人間はろくなやつらじゃない」という言い方をすることがある。いじめの中心にいたのは女子だったので、「これだから女は」と口走ってハッとすることもあった。

 

私立中学へ進学することで周囲と自分を差別化し、自分を囲む無理解な子供らを、それを擁護する教師を、自分があとにした故郷の人々を、ひとくくりに底辺と断定し、そこにとどまることを「抜け出られない」と気の毒がるのはおかしい。「底辺!底辺!自分はその階層を上がった!」と連呼する大人の女性には大丈夫ですかといいたい。けれども、どこかの小さな女の子が小学校時代にそういう思い出しか持てなかったのだとすれば、そりゃきつかったねと思う。楽しい思い出に満ちた公立校をいまも懐かしく思い出す自分は恵まれていたんだろうな。「岡崎にささぐ」みたいな輝きに満ちた小市民の世界は幻想じゃないんだって共感できるもの。

kutabirehateko.hateblo.jp

*1:祖母は後妻の娘だったので、他界した先妻の子らである兄姉たちとは歳が離れていた。

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