対岸にいられないパニック映画 シン・ゴジラ

ゴジラが怪獣のヒーローだった頃に育ち、大人になって昭和の白黒ゴジラを見て驚いた。ゴジラは知的なやりとりが可能なヒーローではなく、日本を破壊する災害であり、あきらかに戦災の象徴だった。人々はゴジラを憎み、失った家族や故郷を偲んで泣いていた。そしてシン・ゴジラはまさに後者の、意思の疎通ができない災害としての怪獣だった。

 

こんなに現実に迫ってくる映画、身に詰まされる映画はなかった。あまりにも問題が切実で、観ている間ずっと娯楽を楽しんでいる気分ではなかった。国家の危機を題材にした映画だからかと思ったけれど、よく考えるとパニック映画というジャンルがある。でも、シン・ゴジラはこれまで観たパニック映画とはまったく違った。

 

子供の頃か、もっと若いときだったら他人事として観ていられたかもしれない。逃げ惑う一般人に自分を重ね、喧々諤々と続く会議にイライラしつつも「誰がどうするのかな?」と外野気分で難癖つけたりしていたと思う。でもこの歳になって、自分と同世代、さらに年下の大人が未曽有の危機にどう対処するかで揉めている姿を、「大人がなんとかするべきだ」と思っていた子供のころのようには見ていられなかった。いつか大人になったら、ではなく、いま大人として、自分はどうやって若い世代や子供たちを守り、助けたらいいのだろうと思わずにいられなかった。

 

居並ぶ政治家は自分が投票した人物かもしれず、政治の仕組みは自分が声を上げなかったせいで承認されたものかもしれなかった。その自分の決定が、こんな大混乱を引き起こし、災害を助長させる可能性があるのだ。

 

ユーモラスな怪獣に親しんだ世代なのか、「ゴジラがかわいそう」という声があった。これをセンチメンタルでナンセンスなものだとする意見もあった。かわいそうかどうかはともかく「こんなむやみに攻撃していいのか」と疑問に思った。狩猟採集民族は平原でライオンにあったとき、むやみに攻撃せず穏やかに話しかけながら静かに遠ざかるという。共存とまでいかなくても、まずは安全な避難経路を確保して出方をうかがったほうがいいんじゃないのか。兵器の力を過信しすぎなんじゃないのか。*1

 

「まさに神の化身ね」というセリフがあったけれど、制御しえない驚異に対する敬虔な恐れを忘れてはいけない。双子の美人小人が歌で神の化身を目覚めさせた昭和のゴジラにはそういった見方がまだ残っていたように思う。

 

敬虔な恐れとは特殊な儀式や祈念ではない。台風の日に田んぼを見に行かない。荒れている海に釣りに行かない。山に丸腰で登らない。化学兵器をむやみやたらに使わない。正体不明のものをむやみに攻撃しない。そして平時の体面や既成概念、政治的な駆け引きを災害時に持ち出さない。これがたぶん、いちばん難しいことなのかもな。

 

観終わってレビュー閲覧を解禁してみたら、何も考えずに楽しめる痛快娯楽大作だと思った人もいたようだった。いやー、ぜんぜん余裕なかったわ。あそこに甥助や姪美がいたら、もちおが臥せっているときだったら、どうしたらいいんだろうと思ったよ。せめて片桐はいりみたいに、ああいうときもおにぎり作って微笑む余裕があるおばちゃんになりたいわ。

*1:この予想が劇中どうなったかは本編を見ていただきたい。

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