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既存の文化を正しいと思っていると身体と心と道徳観が一致しなくて悩む

かつてわたしは遺伝子ではなく神によって人の心に一夫一婦制が刻み込まれていると信じていた。互いに愛し合う異性との出会いこそ人を真のあるべき幸福に導くものだと。ところが一夫一婦が人の遺伝子に組み込まれており、それ以外は異常だと考えると、世の中は異常者だらけの恐ろしいところだ。その説が正しいとすれば、まず両親が異常者だ。

 

遺伝子であれ、神のみ心であれ、父には一夫一婦制は自然の成り立ちではなかった。実母との間にわたしたち兄弟姉妹を作った父は外にいくつもの女性関係を作った。一方そのことで深く傷ついていた実母が自分に好意を寄せてくる父の友人に強く惹かれていることは子供たちの目にも明らかだった。実母は「パパは女の人と身体の関係があるけど、ママはあの人と心で繋がっているだけ」といってのけたことがあった。離婚後、実母はそれ以上の関係を何人かの恋人と持ったようだった。

 

叔母の一人は夫の風俗通いが原因で離婚を決めたとわたしに話した。両親の話によれば離婚の原因は外に交際相手を持った叔母で、叔母は離婚後まもなく盛大な挙式をして結婚した。二人の子供の親権をえて地元に帰った叔父が風俗通いをしていたのかどうかはわからない。数年後、叔父も地元で新たな妻を得て再婚した。「もう子供に手紙を書いたり衣類を送ったりするのはやめてくれ」と連絡が来て、叔母は泣いた。そのころ叔母には新しい夫との間に二人の子がいて、子供が小学校に上がるころ叔母は二度目の離婚をした。

 

跡取り長男だった伯父は「夫が女性を作って出て行った」という子供のいる知人女性の復縁に協力して奔走した。最終的に知人夫婦は離婚にいたり、伯父は呆然としていた女性に結婚を申し出た。彼女には中学生になる娘がいて、伯父はすべての財産をこの継子にかけた。結局伯父は自分と血の繋がりのある子を持つことなく、継子の産んだ孫をかわいがって世を去った。

 

神によって心に刻まれたものであれ、遺伝子によって動かされているのであれ、身近なところに一夫一婦制が根ざしていそうなのは祖父母だけで、親類縁者には生涯連れそう一夫一婦タイプではない不自然カップルが蔓延している。我が家は異常だったのか。大人になってまわりを見れば、一夫一婦制は人類の夢、あるいは社会的な建前であって、現実はそれとは大きく乖離していることがよくわかる。

 

科学は文化的規範の裏付けとして利用される

生涯ただ一人の異性にしか恋愛感情も性欲も抱かない人はそれほど多くはない。すべての文学から不倫と婚外交渉をのぞいたらどうなることか。多数決でいっても一夫一婦関係が進化的に正しく正常でそれ以外が異常とはいえない。だがみんながそうだったら文化的には都合がいい。そして人は文化的に都合の良いことを科学的裏付けがあるかのように話すことがすきだ。キリスト教で自慰行為が非とされていたころ、自慰行為が有害だという「医学的」で「科学的」な話がどれほどあったことか。STAP細胞以上にゴリ押しされる「母性本能」が文化的な教育ではないといえる根拠はどれほど確たるものなのか。

 

ノルウェイの森」で直子をあれほど悩ませたのもこの問題だ。人は心から愛し、恋する相手であっても性関係の対象にはなりえないことがあり、それほど思い入れのない相手に劣情を燃やすことがある。こんなに好きなのに、好きじゃないのに、なぜ身体はこんな風に反応するのだろう。男女カップルの一夫一婦こそ人として自然だと思い込んでいるなら、さらにそれが神の摂理、さだめられた倫理観なのだと思い込むならこの世は地獄だ。

 

しかし隣のテーブルに運ばれてきた料理を美味しそうだと思うことを恥じる人はそう多くない。自分が所有していなくても野山の美しさを堪能する人は多い。それなのにこと性欲に関しては「正式に社会で認められた男女カップルにだけ反応するのが正しい」という圧力がある。*1圧力があるので人は例外を隠すし、表沙汰になれば周囲は糾弾する。どちらかといえばわたしは糾弾する側だった。面と向かって相手にそれを伝えないまでも、この人は自らの良心を傷つける行為をしていると思っていた。その基準はどこから来たのか。人は生来一夫一婦の男女カップルを持つ種であるという思い込みからだ。

 

現実を認めることは問題の容認ではない

キリスト教文化の間ではほんの一昔前まで性欲自体を汚らわしいものと考える傾向があった。*2スティーブン・キング原作の映画「キャリー」にそれがよくあらわれている。あの映画が作られた80年代にはそんな風に性を抑圧することの方が異常でホラーだという風潮になっていたけれど、そんな風に少しずつ性欲自体に問題があるのではないし、性関係を結婚関係に限定することや異性間に限定することは不自然であると考えられるようになった。

 

これは「人類の進化」でも「文化的変化」でもない。非難されようがされまいが人が有史の初めから結婚関係ぬきに性関係をもってきたことは否定しようがない。人の歴史は結婚制度ができるより古く、結婚制度のないところには性のタブーもない。*3

 

現実否認は問題解決を遅らせる

これを認めることはパートナーを傷つける不誠実な不倫行為の容認ではない。ニコラス・G・カーは「ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること」の中で脳の可塑性によって人がいかに変わりうるか、インターネットが人の脳をいかに作り変えてしまうかを筋道立てて説明していた。長期的に見れば命を脅かす有害な行為に脳がはまるというのは恐ろしい話だった。このような話に対して「そんなことはありえない。人は本来身体にいいもの、種の保存に最善な生き方を自然に求めるものだ」と考えて、何かいいことがあるだろうか。それは現実から目をそらすものでしかない。

 

そんな風にならないでほしい、正式な異性のパートナー以外に惹かれないでほしい、欲情の高まりを感じないでほしいと思うのは自由だけれど、それは食欲や眠気を感じないでほしいというのと似たようなものだ。問題は性欲や恋愛感情が現にあるということではなく、それを踏まえてどう制御するかということだ。そんな風に感じるのは不自然だ、異常だ、進化論的にありえないといったところで目の前の問題に対処する点では焼石に水だ。人が生涯のあいだ不特定多数の相手に性欲や恋愛感情を感じるように出来ていることを認め、そこからどう生きるかを能動的に選択しなければならない。

 

ポリアモリーが反感を買う理由

ポリアモリーという生き方は多くの人の反発を買うだろう。このブログでもその話題が出てからのドン引き具合はすごい。でも彼らの生き方はこれまで人類がしてきたことと実質変わりがない。違うのはこれまでの文化で隠されてきた乱交を周知した上で、関係者が相互に配慮することを理想とするということだ。一夫一婦制での乱交の周知は最大のタブーのひとつで、修羅場フラグである。とくに日本では最後まで隠し通すことを美徳とする傾向がある。「知らなければないのと同じ」「墓場まで持っていく」をよしとする人も多い。

 

では隠し通せば何とかなるかといえば、そうはいかない。保証人、代理人、相続にかかわる問題では血縁者や戸籍上の家族が優先される。心理的なショックを別にすれば婚外交渉が問題になるのは生死と保育にかかわることだ。だったらいっそ事前に周知してみんなで話し合いましょうというのは、それに抵抗のないメンバーの間なら合理的だ。ポリアモリーコミュニティがどんな風に問題を解決するのか、それがどんな風に機能するのか興味がある。とくに家族の形態と保育、資産の分配がどうなるのかについて。

 

一夫一婦の刷り込みは家族形態の多様化を遅らせる

昔も今も洋の東西をとわず人は社会的に認められた家族という単位を持ち、子供を産み育てる。人は自活できるようになるまで時間がかかるから、とくに幼い間はどうしても家族が必要だ。この家族の形態はさまざまで、男女カップルといっても性関係をともなわない親子や兄弟姉妹など肉親同士である場合もあるし、性関係を伴う同性カップルである場合もある。育てているのは血縁であることも、そうでないこともある。子育てが上手く行かないのは保護者が子供と血縁の愛し合う男女カップルでないせいだとは限らない。しかしそれこそ人があるべき姿だと思っている(刷り込まれている)自覚すらない人はその形態を至上と考えがちだ。

 

非婚化、晩婚化がすすむなかで家族を求める人は相変わらず多い。人が白熊のように単独で暮らすのは難しい。「愛し合う男女カップルが血縁の子を保育するため社会的に認められた家族になる」がスタート地点から文化的に作られたものであると自覚することで、より現実的な選択肢を見いだせる人は少なくないと思う。

kutabirehateko.hateblo.jp

*1:同じ口がポルノやグラビアアイドルを求め、不特定多数の異性に好かれたいと公言するのは奇妙なことよね。それこそ一夫一婦が遺伝的に組み込まれたものではない証拠なんじゃないの?

*2:ポルノに見られる性差別や性暴力の否定を性欲の否定と混同する人がいるのはその辺から来てるのかもね。

*3:ここでいう性のタブーとは文化的に受け入れられない性行為のことで相互に同意がない暴力や支配関係への非難のことではない。