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100人中100人に絶賛されてきた特技

わたしには幼少期から十代にかけて、人前で披露するたび絶賛されていた特技があった。何かと周囲から浮いて槍玉に上げられることが日常だったわたしの人生において、あのようにすべての人から手放しで無差別に褒められることは他になかった。先日このTweetを読んで思ったのだけれど、もしかしてあれが自分の強み、天与の才能だったのだろうか。

わたしの特技、それは「怖い話をすること」であった。

 

語り部デビュー

4歳だったと思う。友達の家で遊んでいたわたしたちちびっこに友達のお父さんがいわゆる「怖い話」をしてくれた。「深夜のトイレで視線を感じ、見上げると天上の羽目板の隙間にこちらをのぞく顔があった」という王道の話であった。それがわたしが生まれて初めて聞いたオカルトホラーであった。

 

わたしはその話をすぐさま幼稚園で話した。「それでこうやって、上を見たら…そこに人が…こうやってこっちを見てたんだって」ぎゃー!と園児たちはわめいた。わめく園児を見て何事かと話の輪にさらに人が加わった。わたしはまた同じ話をした。ぎゃー!と園児たちはわめいた。これがわたしの怖い話デビューであった。

 

子供は怖い話がすきだ。その後わたしは頼まれるまま繰り返し同じ話をした。そのたびにぎゃー!と園児らはさわぐ。なかでも特別オカルトに魅せられた子供がいて、その子は「怖い話をひとつしてあげる」という条件でなんでもいうことを聞いてくれた。それ以前に仲が良かったわけではなかったのに、下僕のようについてきて怖い話をせがむ。以来わたしは怖い話のネタ収集をはじめた。

 

小学生時代

幼少期は親類縁者の大人に頼って口伝えにネタを集めたが、字が読めるようになると雑誌「ムー」をはじめオカルト関連書籍の体験談を熱心に読んだ。夏休みに放映される「あなたの知らない世界」の再現VTRも重宝した。

 

わたしはけして誰からも好かれる子供ではなかった。教師からも生徒からも父兄からも、好かれるときは熱烈に好かれ、嫌われるときも心底嫌われ、中間層には戸惑われる。そんな子供だったのに、怖い話をするときは周囲の人々が一丸となって集まってくる。誰も話の邪魔をしない。聞き手はクラシック演奏会なみに互いを牽制しあい、固唾をのんで話に耳を傾けた。

 

休み時間はもちろん図画工作や家庭科などある程度自由に席が異動できる授業では「はてこさん、怖い話して」と誰がいうともなく人が集まってきた。クライマックスでは誰かしらぎゃー!と悲鳴を上げる。「おい、授業中だぞ。静かにしろ」とは誰も言わない。ふだんは机に向かっているだけで何かしら教師に因縁をつけられる子供だったのに、怖い話関係では一度も叱られたことがない。

 

わたしの学校ではクラス主催のお楽しみ会が開かれることがよくあった。班ごとに出しものを企画する。人形劇、漫才、コント、クイズ、「はてこさんの怖い話」。それは班の出し物じゃなく個人の芸だよね?成果物もないよね?と思ったが、学級会では満場一致で可決され、ふだん何かと口をはさむ教師からの物いいもなかった。

 

「はてこが怖い話をする」という話を聞いて、友達の家に仄かに憧れている男子が来たこともあった。ホラー映画なら観ていて怖くなったら画面から目をそらすものだけれど、怖い話をしているときはなぜかみな話し手のそばにじりじり集まってくる。問題の男子が肩に息がかかるほどぴったり身体を寄せて冷や汗をかいている様子に内心ときめきながら、わたしは淡々と手持ちのネタを語り続けた。

 

その頃にはわたしなりに自分の話し方のスタイルが出来ていた。最後に大声を上げてびっくりどっきりさせるような話し方は三流だ。最後まで声を落として静かに語る。血なまぐさい描写や劇的な演出で煽るのは素人だ。恐怖は日常の異常性にある。聞き手が息をのみ、両腕で自分を抱きしめて眉根を寄せる様子を見るといい仕事をしたような満足感を覚えた。ネタ収集に励んだ甲斐がある。

 

中学、高校時代

中学に入ると出身校の違う生徒が大勢入ってきた。男子と女子は一緒に遊ばなくなり、校則をめぐって教師とぶつかりあう生徒も出てきた。わたしは人並みに交友関係で苦労し、教師とぶつかりあい、小学生時代以上に周囲から浮いた存在だった。しかし語り部としての需要だけは相変わらず、いや、むしろ高まる一方だった。

 

休み時間、移動可能な授業時間、放課後の教室で、クラブ活動中、生徒会役員の活動時間、高校では部活動中。寄ると触ると「はてこさん、怖い話して」とリクエストをしてくる生徒が誰かしらいた。わたしの他にも怖い話を知っている子はもちろんいた。しかし彼らは持ちネタが少なく、多くはクライマックスで大声を出す式の話で長期的な需要に応えることが難しかった。一方わたしはそのころ刊行された「ハロウィン」「サスペリア」などのホラー漫画雑誌の読者ページまでくまなく読んで新鮮なネタ収集に励んでいた。

 

高校の林間学校では学年ごとの出し物が企画され、ここで再度「はてこさんの怖い話」が演目に上がった。当時はお笑い芸人扱いだった稲川淳司が「生き人形」などでシリアスな怪談を披露し始めた時期でもあり、大勢を前に怪談を語るというスタイルが全国的に認知されはじめたころであった。このときは会場内の何箇所かに盛り上げ役の生徒にスタンバイしてもらった。そして体育館の灯りを消し、話の途中で会場の外からわらべ歌を歌ってもらい、非常口のドアを外から勢いよく叩いてもらうという小細工をした。みなさまに少しでも怖がっていただきたい、ぞっとしていただきたい、夜中に目が覚めてトイレへ行きたいけど行けないというあの葛藤を味わっていただきたい。そんなささやかな思いで続けてきた語りの最高潮が高校1年の林間学校であった。

 

しかしわたしはこのあと怖い思いをして怖い話をすることを止めた。

 

怖い顔

わたしの怖い話の売りは臨場感であった。見上げる、振りかえる、手をかざすなど身振り手振りをまじえながら、そして自分自身の表情によって、わたしは物語の中のさまざまな人物を描写した。多くのネタには生死が定かでないこの世のものならざる異形のものが登場する。わたしは異形のもののを見た人物の顔と、異形のものの顔、両方を自分の表情で表現した。

 

「大袈裟にやるのは素人だ」というこだわりは身振り手振りや表情にも一貫してあった。話の肝のぞっとする場面では特に、慎重に静かで微妙な変化だけで恐怖を表現した。つまりぎゅっと顔をしかめたりカッと目を見開いたりはしなかった。けれどもその表情のなかに、その顔をすると必ず悲鳴が上がるという顔があった。

 

自分でその顔を見たことはなかった。やる側のコツは顔の力をすっと抜き、集中して一点を見ながら同時にどこも見ていないぼんやりした視線を作ることだ。「それでね、ふりかえってみたらそこにこんな顔をした人がいて…」とその顔を作る。聞き手がいっせいにヒィィィ!と悲鳴を上げる。もう内心おかしくなるくらい、必ず悲鳴が上がる。

 

あるとき鏡の前でその顔を作ってみた。ゾッとした。その顔は、わたしが以前深夜に子供部屋の窓の外に見た見知らぬ女性の顔にそっくりだった。女性は喜びも悲しみも怒りもない、底なしの穴のような表情で暗がりからじっとわたしを見ていた。家は単線を見下ろす丘の上にあり、子供部屋は二階にあった。

 

鏡に映る自分の顔がいつか見たこの世のものならざる何かの生き写しであることに気が付いたとき、怖い話のネタ集めをしていると足元に何かが擦り寄ってくる感じがして鳥肌が立ったこと、話し終えて帰ろうとすると水から上がったばかりのように体が重くて動けなくなること、そして怖い話をするときだけは誰からも歓迎され熱烈に支持されること、こういったことがすべて一点で繋がった気がした。わたしに話をさせているのはわたしでも聞き手でもないと思った。

 

それから現在まで

このとき以来わたしは人から頼まれてもほとんど怖い話をしなくなった。不可解な体験をしたことを人に話すことはあるけれど、あのころ蓄積したノウハウにふれないよう注意してサラッと話す。絶対にあの顔はしない。こうしてわたしの天与の才は封印された。

 

その後はそれまでと同じように一部で熱烈に好かれ、一部で心底嫌われ、大半の人からは戸惑われながら生きている。何をやっても満場一致で熱狂的な支持を受けることはない。けれどもいまでも連続でシャッターを切ると、ときどき写真にあの顔が写っていることがある。前後の写真からすると不自然な視線をこちらに向けながら。

 

お世辞抜きにたいへん面白い本だったけれど手元に置きたくない。