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自分の弱さを盾に取る人 スーザン・フォワード 「となりの脅迫者」

レビュー 思うこと

「みやきち日記」のid:miyakichiさんがありがちな性犯罪者の自称「性暴力について考えるうえで大事な資料」なる犯罪手記を読んで思ったことで紹介していたスーザン・フォワードの「となりの脅迫者」のサンプルをkindleで読んでいる。

 

 

スーザン・フォワードは「毒になる親」で一世を風靡し、いまでは原著を知らない人も毒親という言葉を使うほどだ。「となりの脅迫者」は人に罪悪感や義務感を抱かせて自分の思い通りに操作しようとする人々が使う心理的なテクニックを分析し、その対処法を教える本。

 

日常的な脅迫

かつてわたしはこのようなかけひきにとても弱かった。もうやすやすとそれに引っかかって、というより、自分からすすんでそれに飛び込んでいくこともあった。わたしは被害者、犠牲者を自称する人、また「自分はある種の病的な状態から立ち直ろうと奮闘しているサバイバーである」と称する人にはなんでもしてあげるべきだと考えていたからだ。

 

また「親に従順であれ」「孤児ややもめに親切であることこそ信仰の証」という聖書の言葉を絶対視するあまり、身内の要求を蹴ることは信仰の否認になると考えていた。それで心からそうしたいと思うこと以上の要求を呑もうとして、両親や一人親だった妹の言動にふりまわされていた。

 

この本にはさまざまな手段で人に脅しをかける方法が書かれている。仕事を奪う、離婚する、相続権を絶つといった力に訴える方法もあるが、「自分を罰する人」として書かれているタイプは自分の弱い立場を利用して人を操作しようとする。「こんなにひどい境遇にいる自分をさらにひどい状態へ追い込むなんておまえは残酷だ」という種類の脅迫(ブラックメール)だ。

 そんな彼らがブラックメールという手段に頼ると、自分を取り巻く困難のすべて(現実のものであれ、想像上のものであれ)を相手のせいにすることで、自分の要求を正当化する。それどころか、彼らは、相手が彼らの身に起きたことに責任を感じるように仕向けるという、信じられない才能を持っている。

 「罰する人」の脅しの対象にされた人は、たとえ大人であっても、子どものような反応をしがちだが、「自分を罰する人」の脅しの対象にされた人は、彼らに大人の役割を押しつけられるはめになる。この場合、対象にされた人こそが、その人間関係のなかの唯一の大人なのだ。 

わたしはこのタイプに心覚えがある。個人的には権威を嵩にきるタイプより、こちらの方がタチが悪いと思っている。

 

「弱者」への批判を封じる脅迫

みやきちさんが言及してくれた男子の性衝動をカルマか何かように特別視する風潮を書いたとき、そういう人が何人もあらわれた。

 

批判が正しいかどうかに関係なく、「おまえは強者」「彼は弱者」を前提に話をすすめ、「強者による弱者いじめだ、ナチだ」と騒ぐ人。*1イミが傷つき、立場が不利になるとすれば「回復が遅れる」「彼は批判を受け止められるほど強くない」と言い募る人、イミがブログとTwitterを非公開にしたことに「責任を感じるべきだ」と繰り返しブクマやブログ、Twitterで非難してきた人もいた。

 

また屋上娘は「自分は人の話を聞く資格もない無知で無力な被害者でしょうか」と書いた。裏を返せば「もし話を聞く相手として不適切だというなら、それは自分に差別的なレッテルを貼っている証拠だ」ということだ。これは非常に巧妙でいやらしい脅しだ。*2*3

 

「性暴力加害者の告白に圧力をかける行為は性犯罪を増やす」と仄めかしてあからさまに脅迫してきた自称「性暴力被害者支援活動」をしている@haru0721もいた。彼はまた屋上娘のうかつさを指摘したことを「性暴力被害者へのレッテル貼りだ、サバイバーを見下している」と大騒ぎをした。*4ここでもまた「おまえは弱者を配慮しない無神経な強者だ」という脅迫がみられる。

 

これらに共通してみられることは、「繊細な弱者様にご満足いただける批判でない限り、どんな批判も非難も控えるべきだ」という主張だ。さもなければ弱者は自傷自罰行為に陥るかもしれない。弱者の命をなんだと思っているんだ。しかしこのような態度は実際には「弱者」をさらに大きな問題へ追い込む。

 

弱者のご紋の弊害

わたしは自称弱者が他者を強者の立場において自分を配慮させようとするいやらしさに心底うんざりしている。自分は弱いから他者への加害を自制できない。弱いから批判に耐えられない。だから加害行為を非難せず大目に見ろ、大目に見ないならそれはおまえが酷い人間だという証拠だ、それを指摘してなお取り下げないならこちらは全面攻撃の用意がある、まずはおまえのせいでこちらがどれだけ傷ついたか、破壊的な行為で証明してやろう。*5

 

こういう人は「弱者」の立場から抜け出せない。それが自分のアイデンティティであり、免罪符になっているので、それなしに自分を人と違う人間だと区別できるもの、自分の行為を受容してもらえる根拠になるものがないからだ。*6

 

そういった主張をする人が実際に残酷な過去や苦悩を経験していないということではない。けれどもそれが自分の売りになってしまうと、その人は他者と対等で親密な関係を築く方向へ成長するのが難しくなる。他者に対してある種の生ける感動ポルノとして自分を売り込んでいくほかないからだ。

 

わたしが他人の世話に奔走していたころ、熱心に電話をくれた人たちはいつも刺激的でぎょっとするような話題ばかり持ってきた。自傷行為、加害行為、衝撃的な人間関係、経済的困窮、異常な性行為、刃物や薬が飛び交う世界だ。最近読んだおもしろい本や、つまらない映画の話なんかはしない。彼らは生ける感動ポルノのコンテンツとしての自分をわたしに売っているのであって、ただの人間同士の平凡な友情で親しくなる道はそこになかった。

 

弱者ファンをやめてから

わたしは長い間あるクリニックへ通ってカウンセリングを受けたが、その過程で徐々に人を見る目が変わってきた。そして親兄弟の問題は彼らに責任をとらせたほうがいいし、わたしの人生は彼らのリソースではないということが少しずつ肌身でわかってきた。同時に熱心に連絡をくれる「サバイバー」たちの話を冷静に聞けるようにもなり、そこに見られる矛盾に疑問も覚えるようになった。わたしは勝手に彼らを弁護し、彼らに都合のいいように物事を解釈するのをやめた。

 

親兄弟は少しずつそのことを理解するようになり、関係がかわった。当時の知り合いはいまでは一人も電話をよこさない。「友達」といえる人は前よりもずっと少ない。でもわたしを脅迫するような人はそばにいない。そういう人に出会うことはあるけれど、話に乗らないので関係が深くならない。それでもつかまってしまうことはあるけれど、以前のように「必要とされた」「役に立ってうれしい」とは感じない。困ったな、と思う。

 

いまも立場が弱い人がいるなら力になりたいと思う。それはわたしが大人で強いからじゃなくて、わたしも弱いながらにがんばっているからだ。わたしをそんな風に、自分と同じ弱いけどがんばってる人として見てくれる人とは仲良くなりたい。お互いがんばろう!と思う。

でもわたしを強くて余裕のある人とみて自分をケアしてほしい、と思っている人とは友達にはなれない。わたしもそんな風に誰かを神様、大人様に仕立ててすがらないようにしようと思う。さしあたってもちおとかね。

 

kutabirehateko.hateblo.jp

*1:「彼は年下の学生であなたは年上の主婦だから弱者、強者の関係だ」といってきた人もいた。議論をするうえで就職活動中の成人した大学生と比べて主婦が社会的強者であるといえる根拠はない。

*2:こういう巧妙な脅しをかけてくる人間は日ごろからある種の犠牲者特権をふりかざす癖がついていることが多い。

*3:それに対する返信はこれ。屋上で話を聞いた女の子へ

*4:ブログとTwitterでレッテル貼りをしているのは@haru0721だと指摘したのち数日沈黙してから、何事もなかったようにTweetを再開している。彼のタイムラインだけを見ていた彼のフォロワーがいたらわたしの主張とはまったく違うものを信じていることだろう。

*5:弱者男性論争や表現規制でもこういう話は出た。

*6:実際にはスポットライトの当たらないような平凡な日常にも人の個性はあらわれるし、人の尊厳は何かを大目に見てもらうこととは関係なく誰にでも平等になる。