「ぼくの美しい人だから」 マイノリティ、マジョリティとは何か

本棚の10冊で自分を表現するにも書いた「ぼくの美しい人だから」。これは27歳の青年マックスと41歳の女性ノーラの恋愛小説。1987年にアメリカでグレン・サヴァンによって書かれ、1990年にスーザン・サランドン主演で映画化された。 

しかし物語のテーマを考えるとスーザン・サランドンはヒロインとして適任とはいえなかった。なぜか。

 

マックスは2年前に妻のジェイミーを事故で亡くし、以来恋人を作らなかったし、誰とも寝なかった。そんなマックスを友人たちは心配し、いい加減に新しい恋人を作るべきだとけしかける。マックスはひょんなきっかけで強烈な個性をもった女性ノーラに出会うが、彼女と自分の住む世界の違いに戸惑い続ける。やがてマックスをとりまく人々、またノーラをとりまく人々の反応が二人の関係に影をさし・・・。

 

とまあ、こういう話なんですけどね。できれば原作を手にとって読んでいただきたいんだけど、絶版なんだって!なんでさ。でもわかる気もする。上に書いたようなありがちな恋愛小説として読むと、とくにときめく台詞もなければうっとりする場面もないからね。でもこの物語は人が互いに知り合うとはどういうことか、愛は社会的な抑圧を超えられるのかという問題を絶妙な匙加減で描いている。 

 

「強者」「弱者」で分類できないもの

この話に出てくる人たちはみなある意味では人も羨むマジョリティに属し、ある意味では見下される、あるいは理解されづらいマイノリティの立場にいる。

 

ヒロインのノーラは41歳、マックスは27歳。いうまでもないけれど41歳の女性は27歳の女性より恋愛市場では下に見られる。ノーラは貧困家庭で育ち、学校もろくに出ておらず、いまはハンバーガーショップで働いている。暴力癖のある夫は失踪したきりで、一人息子を亡くして何年にもなる。一見、典型的な底辺社会の女性に見える。 

 

一方、主人公のマックスは広告代理店に勤務し、塵一つないしゃれたマンションに暮らす独身貴族で、典型的なアッパークラスの若い男に見える。彼はこれまで読んできた本も食べてきたものも何もかもがノーラと違う。彼は自分でも理解しえない衝動でノーラに惹かれるが、同時にすむ世界の違いに悩み続ける。

 

ではマックスは本当にマジョリティで強者なのかというと、そうではない。

 

マックスは明晰な頭脳でエリート街道をのし上がってきた。でも彼は富裕な友達に囲まれながら、浪費壁のある母によって貧しさの中で育てられた。また彼はユダヤ人で、彼と彼を囲むユダヤ人たちはアメリカ社会で成功者としての立場を得ていながら、同時に「反セム系」であるアメリカ人に屈折した思いを抱いている。

 

マックスと亡き妻ジェイミーは高校時代にベストカップルに選ばれるほどの美男美女だった。でもマックスはチビで、作中でもときどきそのことを馬鹿にされる。マックスは容姿に自信があり、同時にコンプレックスもある。

 

同じくノーラは憐れみが必要な弱者なのかといえばそうではない。彼女は乱脈な人生を送っているとはいえ聡明で自立した女性で、マックスに依存することを断固拒否する。ノーラはあばらが浮き上がるほど痩せぎすで、ネイティブアメリカンの血を受け継いだ面差しは骨ばってきつい。けれどそこには抗いがたい野性的な魅力がある。また彼女は貧しいとはいえアメリカ社会で優位にある白人である。彼女を安易によるべのない弱者と定義することはできない。

 

もしもこの話が弱い女性のコンプレックスを強い男性が癒す話だったら、あるいは弱い女性のけなげさが強い男性を救う話だったら、もっとわかりやすく受け入れられたかもしれない。そういう単純明快な時代劇のような小説が好きな人は少なくない。でも現実はそんなに単純なものではない。

 

この小説が持つ複雑さは社会的立場とは何か、それはありのままの個性とどう違うのかと問いかけてくる。若く高学歴で裕福なマックスは強者なはず、中年で低学歴な貧しいノーラは弱者に違いないと思って読んでいると見誤る。またマックスを苦労知らずなブルジョワと考えたり、ノーラをいさましい聖女のように思うのも間違いだ。二人は強さと弱さをもつただの人間として、悩みながら愛を模索する。

 

二人を囲む人々はマイノリティなのか、マジョリティなのか

この作品のさらにすばらしいところは、こうしたマジョリティであり同時にマイノリティでもあること、また自分に誇りをもちながら同時に劣等感を抱いている人々が、彼らのまわりにごくさりげなく大勢配置されていることなんですよ。

 

マックスの敏腕上司ローズマリーレズビアンで、恋人との関係に悩んでいる。元姑のサラは大金持ちの妻だけれど亡き娘を愛せなかった自分をもてあましている。マックスの幼馴染連中、新婚ほやほやで幸せいっぱいなホラヴィッツは太り気味なことを馬鹿にされてきた。何もかも完璧な妻を持つクラグマンはセックスレスで、バスルームで隠れて大麻を吸っている。

 

まだある。ノーラとマックスが言い合いをするアパートの廊下にゲイが顔を出して二人をからかう。ノーラが働くレストランの店主は移民で英語が読めない。ノーラの姉は占い師でパートナーが次々にかわる。

 

作者のグレン・サヴァンはこれらの人物に手垢のついたレッテルを貼らない。「同性愛者」「セレブ」「デブ」「セックスレス」「移民」というくくりで、いかにもな描写をしない。だからマックスとノーラの恋愛に集中して読んでいると、こういったマイノリティ・マジョリティといった問題には気づかない。彼らは特殊な属性を持った人々としてではなく、わたしたち誰もがもつ感情を持ったひとりの人間として描かれている。

 

マックスとノーラ、また彼らを囲む人々はみなマイノリティとして理解されづらい孤独な悩みをかかえ、同時にマジョリティとしてはみ出し者になることを恐れている。そして自分が求めるものと社会が求めるものとの間でどう生きるべきかを模索している。そうした点でゲイもセレブも貧乏人もハンサムも違いはない。自分が属す社会から相対的に相手をみるとき、人はこのことを忘れがちだ。

 

ただひとりの人

この物語のなかでわたしがもっとも印象的だったのは、元姑であるサラにマックスがノーラとの関係をうちあける場面。

誰もが愛してやまなかったジェイミーを失ったマックスが次にどんなすばらしい女性を選ぶのか、誰もが興味津々だった。とくにジェイミーの母であるサラはそうだった。サラは非常に冷静で理知的で上品な女性だが、マックスからノーラの話を聞いて「白人の貧民層のクズとしか思えないわ」とマックスに告げる。そしてマックスがそんな底辺の女性を相手にするのは再び妻を失うのが怖いからであり、一種の自虐だと穏やかに、辛抱強く分析する。

「きびしくいいすぎたかしら」

「そんなことはありません。おっしゃることは、すべて筋が通っていましたから」

「そう?」

「ええ、完璧に筋が通っていました。ただ問題なのは、まるでくだらないということです」マックスはベンチから立ち上がり、烈しく打ち震えるような確信にせかされて、サラに向かいあった。「サラ、それでは心理学のハウツー本じゃありませんか。ぜんぶ聞こえのいい精神分析のまねごとみたいだ。あなたはそういう鮮やかな隙のない自説をもちだしてきたが、それで真実にいくらかでも近づけたと思っているのですか。人間の内部はもっと複雑です。まっすぐな線など一本もないですよ」

 サラからみればノーラは「下品なバーへ行って貧しい中年女を拾ってくればノーラになるみたいなものだろう」とマックスは言う。サラはそれを否定できない。サラはノーラを血肉の通った一人の女性ではなく、自分の属する社会で異端とされる女のステロタイプとして想定していたからだ。

 

わたしが人を属性で分類することを不愉快に思う理由がここにある。人は自分のもつ生理的な特徴、また社会的な背景によって間違いなく影響を受ける。けれどもそれらの特徴で人を分類することは多くの貴重な情報を切り捨ててかまわないと人に思わせる。

 

残念ながら映画ではこの辺ばっさりそぎ落とされて、人種問題無関係なスーザン・サランドンジェームズ・スペイダーの刺激的な年の差恋愛ものになってしまったみたい。スーザン・サランドン、上品すぎるし知的すぎる。そして本は絶版ですよ。どこかで見かけたらぜひ手にとって読んで欲しいと思う。人を差別する側、される側なんて簡単に切り分けられないことがよくわかるし、愛の物語としても美しい話だから。

 

感動ポルノが物語の質を落とす理由 - はてこはときどき外に出る

例えば「ゲゲゲの女房」の水木しげるみたいに、特に説明もなく車いすや盲人のキャラが登場して、その特徴とは何の関係もなくストーリーが進むドラマが増えれば、それは社会の成熟の証かも知れない。

2015/10/02 16:57

b.hatena.ne.jp

kutabirehateko.hateblo.jp

広告を非表示にする