オリヴァー・サックスは子供の頃から3Dマニアで、自作のカメラでさまざまな3D写真を撮り、大人になってからはニューヨークステレオスコープ協会の熱心な会員になった。彼は単眼視に限らず双眸を同じ方向へ向けられない斜視の場合、物を立体的にとらえることが難しいと書いている。しかし人には適応能力がある。通常先天的、また後天的な斜視、あるいは単眼視であっても日常生活ではそれほど困ることはない。
しかし先天的な斜視を後年手術で治療したスー・バリーという女性は、治療後立体視の訓練を受けてはじめて「物が立体に見えるとはどういうことかがわかった」と非常に興奮し、感動的な手紙をオリヴァー宛てに送ってきた。彼女はそれまで立体視できないことにはまったく何の支障も感じていなかったが、立体で見えるということがどういうことかを自覚してはじめてそれまで何が見えていなかったかを知ったのだった。これは「心の視力」のステレオ・スーという話。
さて、わたしの瞳は上下に若干ずれている。つまり斜視がある。これまで階段を降りていると段差の距離感がよくわからなくなっていつも怖い思いをしてきた。なので階段ではいつも手すりか壁に手を添えている。この話を読んではじめて、それが斜視と関係しているのかもしれないと興味深く思った。
5年前レーシック手術を受けた。それまで弱視に近いレベルの近視だったので、見える世界というものにとてもショックを受けた。見える人たちってこんなになんでも見えているの?!眼鏡やコンタクトレンズを通してみるのとはまったく違う世界だった。こんな風に「見える」人生と、「見えない」人生では、人の顔も部屋の様子も、飲食店に入ったとき店のどこに注目するかも違うだろうと思った。それは考え方にも影響するだろう。
わたしはレーシックを行う病院にそそのかされて、必要もないのにスーパークリアビューというタイプの手術を受けた。遠くまで鮮明に、鳥のように正確に見える視力を手に入れる手術だった。確かに被写体深度が深いレンズで撮った写真のように、何もかもが鮮明に見える。
ところが。この眼になってから新国立美術館でルノワールの絵を見たところ、まったく心が動かなくなって驚いた。同じ手術を受けた夫もそうで、二人で首をひねった。思うにルノワールが見た絵の具の光と影と、わたしたちの目に映る絵の具の光と影はどこかがまったく違っているのだろう。補正フィルターがかかると同じ画像が違って見えるが、人の目にはそれぞれそうしたフィルターがあるのではないかと思う。それが人と大きくかけ離れていると見えるものが違う。
わたしは緑の色覚異常もあり、絵を描くとき色選びに苦労する。それも大人になるまでわからなかった。オリヴァー・サックスは3D視力、物を立体的にみる力にも差があるという。日ごろ3D画像を見慣れている人と、斜視を矯正した人とでは見え方の深度に違いがあるという。
わたしは緑の区別がついていないことで自分がどれくらい困っているかわからない。*2また階段の段差がわからなくなることが斜視とどの程度関係しているかもわからない。ただ人は自分がどれほど見えているか、また見えていないかについて、自分のことをあまりよく知らないんじゃないかなと年々思うようになった。
オリヴァー・サックスの「心の視力」はこの他にも見えることと識別することの違いの話などさまざまなエピソードがある。この本はおもしろい。次は「見てしまう人々」を読む予定。
以上、前回の補足。