感動ポルノが物語の質を落とす理由

オリヴァー・サックスの「心の視力」に片目だけで物を見ること、いわゆる単眼視がいかに生活を困難にするかが書いてある。単眼では物が立体に見えないため、自分と自分をとりまく物との距離がわからない。目の前にあるものがつまめなかったり、遠くにあるものに触ることができると錯覚したりすることもある。

 

少し眼帯をつけて暮らすとわかるけれど、物が立体に見えないことには危険がいっぱいだ。階段の上り下り、火にかけた鍋を掴むこと、飛んできたボールをキャッチしたり、よけたりすること。これらはすべて立体視による距離の推測で成り立つ。

 

ほんの小学三年生で失明し、以来単眼視ですべての仕事を成し遂げたコメディアンがいる。彼は瞳を隠すためにサングラスをかけ、当時主流だった舞台の上をドタバタとはしゃぎまわるお笑いスタイルではなく、マイクの前に棒立ちになってさまざまなネタを披露した。舞台にはマイクのコードや段差があり、はじめて訪れた舞台でそういったものから身を守るには舞台の上をなるだけ歩き回らないことが求められたからだ。

 

彼は動物の真似でも人気を博したが、彼はそのネタを披露するさい四足で舞台の上を歩いた。少し動いては立ち止まり、舌を出したり引っ込めたりする。観客は彼のこっけいなしぐさに腹を抱えて笑ったが、彼は両手両足を使って舞台の上のものを数歩ずつ確かめていたのだ。彼が単眼視であることに誰も配慮をしめさなかった。

 

やがてお茶の間の人気物としてテレビ出演が増えた。彼は右目に海賊がつけるような黒のアイパッチをつけ、黒髪をオールバックに撫で付け、黒いスーツを着た。スーツ姿の七三男がアイパッチをつけておかしなことをするというミスマッチがまた受けた。彼は失明をアイパッチで隠すことで個性にかえ、それを強みに芸能界を勝ち抜いていったのだ。

 

仕事が増えるにつれ真面目な場面で意見を求められることも増えた。彼はアイパッチをサングラスに替え、軽妙でウィットに富む会話で多くの人々を魅了した。そしてついに全国ネットのレギュラー番組司会者の座を得た。

 

毎日、毎週、彼は同じセットの中でゲストを迎えて話をした。そして舞台の上の凹凸に神経を研ぎ澄ますことから自由になった。ようやく彼は単眼視という弱点を補うために四足になる生活から開放されたのだ。彼はゲストと並んで椅子に座り、番組内で電話をかけるときはゲストかアシスタントがかけた。単眼視でプッシュ式電話を使うのは距離感を見極めるうえで困難を伴ったからだろう。

 

後にその番組はギネスブックに掲載されるほどの国民的長寿番組となった。彼は来る日も来る日もその番組の司会をしつづけた。深夜番組でおかしなことを言う男、アングラなコメディアンというイメージは徐々に払拭され、かつて四つんばいで舞台を這っていた彼を知るものもほとんどいなくなった。

 

彼は単眼視を克服し、健常者と同じ仕事を立派にやりとげたのだ。彼は単眼視の希望の星であり、私達健常者にとっても見習うべき手本を残した。私達には両目があり、いつでも物が3Dに見える。手前にあるキーボードと奥にあるディスプレイの距離、手にしたスマートフォンとその向こうの景色が奥行きを伴って見える。しかし心の奥行きという点ではどうだろうか。彼は物を立体に見ることが出来ないからこそ、世の中の奥行きを心の目で見る訓練をしていたのかもしれない。

 

って、タモリのことを書く人がいたらどう思う?

 

タモリが小学三年生で失明して、その後同じ右目にゴルフボールをくらったことを知っている人がどれくらいいるかわからないけれど、タモリについて考えるときふつうは彼の人柄や考え方、生き方や芸歴について思うよね。言い換えると彼という一人の人間について考えるよね。

 

でも感動ポルノは違うわけ。ポルノが女性を(あるいは男性を)人格と尊厳を持った人間ではなく、劣情を催すための記号として描くように、感動ポルノは人を「健常者の誰もが持っているものを持っていない人間」「不利で劣った立場からハンディを克服した人間」と見るための道具として使うわけ。

 

感動ポルノを作る人は、自分が選んだ感動ポルノ俳優がいかに自分たちまともな人間と違うかを強調する。そして感動ポルノ俳優のやることなすことすべての動機をそこに帰結させる。*1そして勝手に感動する。その感動を周囲に押し付ける。「こんな可哀想な劣った人間が、まるで我々まともな健常者のように、立派な市民のようにふるまっているなんて賞賛すべきことだ。彼を、彼女を名誉健常者、また名誉市民として温かく迎えてあげようではありませんか」ってね。

 

感動ポルノを作ろうと思ったら、人間としてのユニークなありようなんかばっさばっさ切り落とさないといけない。ポルノを作るときに女を個性ある人間じゃなくおっぱいと性器の付属物みたいに、男優は局部だけ大写しにできたら顔なんか邪魔だと思うようにね。そうするとあの人もこの人もかわらないわけ。人じゃなくて物語りを盛り上げるための道具だから。

 

タモリで感動ポルノを作ろうと思ったらブラタモリでどこへ行ったとか、空耳アワーでどんなネタがあったかとか、黒柳徹子に毎年手料理食べさせてるとか、そういうのは要らない情報になる。ああ、「彼が黒柳徹子と仲がいいのは彼女が困窮する子供たちのために尽力しているからだ。彼は単眼視としてのハンディから恵まれない子供たちにシンパシーを覚えている」とかかな。

 

タモリが片目で物を見ているということは彼の思想や生き方に何かしらの影響を与えていると思う。オリヴァー・サックスの話を読んでみるに、片目と両目じゃ本当に世界が違って見えるらしいからね。だからタモリを語る上でそれは外せない要素ではある。単眼視同士が語り合うことで通じるネタもたくさんあるだろう。でもそれは彼のすべてではない。

 

アンナ・カレーニナ」が人妻不倫ポルノになってごらんよ。ほとんどの場面はカットされて、こんなに長い間読み継がれてはこなかっただろうよ。感動ポルノは人間模様を描いているようで、ちっとも描いていないのよ。

 

「社会的弱者をつかって作られた作品で感動すること」は悪いことなのかに対する私の感想は、感動ポルノは話を薄っぺらくダメにするから作品の質として悪いってことだわ。

社会的マイノリティを記事に扱う時に僕が今後気をつける事は数が少なく多勢に無勢で見下されていることが問題なのであって、マイノリティとされるグループ自体が周囲が思うような問題を抱えているとは限らないと覚えておくことじゃないかな。

 

単眼視のタモリも、自閉症ビルゲイツも、社会的マイノリティではあるけど、どう考えても弱者じゃないでしょ。彼らの偉業に感動するために「健常者ではないのに」なんて枕詞は必要ないと思わない?*2

 

ステラ・ヤングの軽妙なユーモアを語る上で「健常者じゃないのに」っていう言葉は要らない。それは彼女の個性だけれど、彼女はその属性で語りきれる人じゃない。わたしたち誰もが持っている喜怒哀楽の感覚を彼女も持っていて、それを独特の切り口で表現してみせることが彼女の偉業であって、彼女の肉体が多数派と違うことが偉業なのではない。

www.ted.com

肉体的なマイノリティの問題を書いたけど、職業も同じだよ。どんな仕事に就いているかは人の人生の一部ではあるけれど、その仕事に就いていることを枕詞にその人を語る目的が感動ポルノだとしたら、やっぱりその物語は薄っぺらいものになる。そういうのが有効なのは推理小説でトリックを読み解くときだけじゃないかな。

 

kutabirehateko.hateblo.jp

*1:こないだわたしが屋上娘に説教したら、「彼女が性暴力被害者だからそういったに違いない」と決め付けてきた人が大勢いた。屋上娘を未熟な十代の少女ではなく性暴力被害者として擁護しているつもりになってる人たちもまた感動ポルノに酔っている。

*2:「心の視力」でオリヴァー・サックスは相貌失認症だと知って驚いた。あれだけ大勢の患者をユニークな視点で見ている人が、人の顔の区別どころか自分の顔すらよくわからないなんて。でも彼のすばらしさを語るうえで「相貌失認症なのに」はなくてもいいよね。