他山の石への同一視

衝撃的な事件がおきたとき、加害者、あるい被害者は自分だったかもしれないとよく考える。たまたまそうならなかったことは恵まれていたと思うし、そうならないように出来ることはなんだろうと考える。いわば他山の石として学ぼうと思う。

 

でもここで加害者と自分を同一視する人は加害者が非難されていると自分が否定されたかのように凹んだり、猛然と反発してきたりすることがある。「男は痴漢が非難されていると自分が非難されているように感じるからそういうことはやめてくれ」と書いていた人がいたが、自分がそうするかもしれないから非難しないでくれというのは自分を大目に見てくれということで、加害者への理解でもなんでもない。*1

 

「自分にも似たところがあるから加害者の気持ちはよくわかる、加害者には理解が必要だ。理解を示さなかったらより深刻な事態がおきかねない。社会が配慮すべきだ」

相手が病人や子供ならいざしらず、責任能力のある大人が起こした事件、それも刑務所に入りたいから女子高生を滅多刺しにするという事件にこういうことをいうのは、要するに社会に自分を配慮するよう要求しているんだよ。「配慮してくれないと陰惨な事件がおきるぞ、それでもいいのか」っていう脅迫なんだよ。*2

 

自分に破壊衝動があるとか、加害歴があるとか、自分を主体に語ればいいだろ。「彼、彼女を」じゃなく「そんな自分を」それでも否定しないで受け入れてほしいと書けばいいだろ。 

なんで良識ある無名の一般人という立場にしがみつきながら、生身の人間に起きた悲惨な事件を盾に、運命に翻弄される無力な加害者を擁護するような体で自分への個人的な配慮を周囲に要求しているの?

 

ありのままを受け入れるというのは人にいい面やわるい面があると知ること、そして知った上でその人の尊厳を認めるということだ。尊厳を認めるというのは相手をいっさい非難せず、なんでもかんでも肯定することとはまったく違う。

 

なんでもかんでも肯定してもらうことが「ありのままを認める」だと考え、それを渇望している人は手が着けられないほど自意識が肥大したどうしようもない人間になるしかない。話の内容ではなく、異論を唱えられること、非難されること、それも自分と似た他人への非難にすら堪えられないなら社会ではなく自分のねじくれた自己愛をどうにかするべきだ。

 

ありのままを認めるとはろくでもないところはろくでもないところとして、すばらしいところはすばらしいところとして認めるということだ。ろくでもないところを感傷的に美化するのはすばらしいところを意地悪く中傷するのとかわらない。自分が望むように相手を見て、望むように相手に受け取らせたいと思うのはちっともありのままではない。

 

ろくでもないところがある自分を、ただのあたりまえの人間だと思うことが自己受容だ。情状酌量の余地があるはず、本当はすばらしいはずだから認めるというのは業績主義から抜け切れていない。人間なんだからろくでもないところのひとつやふたつは必ずある。聖人君子だけが人を非難できるとしたら、人はなにひとつ互いの問題を指摘できないだろう。それが理想の姿だと思うの?

 

他山の石が自分に見えたとたん、あの石をすばらしいと思ってもらわなければと必死になるのはおかしい。他山の石は自分ではないし、他山の石から学ぶとは他山の石に肩入れして内心の不安をなだめるために自己弁護することとはまったく違う。そんな姿勢ではなにも学べない。

kutabirehateko.hateblo.jp

*1:「おまえだってやるかもしれないから非難する資格はない」というのは加害行為を社会で容認していこうということで、話がめちゃくちゃだ。自分がやるかもしれないならなおさら原因と予防策を真剣に考えないといけないだろうよ。

*2:加害者にもセーフティーネットが必要だったと思いながら、「自分はそのために何をしてきたか、どうするつもりか」ではなく「みなさんに考えていただきたいことは」と対応を他人にふるのはなぜなのか。

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