読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

モテ指南ナンパ指南の谷山浩子っぽさ

 

「人と思わずキャベツだと思えばいいのよ。自分の演技に集中しなさい」という言葉は、演劇の世界だけでなくモテ道界隈にも通じるもののようだ、というのが、ここ数日モテ系ブログを読んだ感想。ナンパ界隈もそうだな。

 

キャベツ相手に緊張しなくていい。キャベツにどう思われるかなんて気にしなくていい。キャベツの人生に責任を感じることはない。

 

モテ指南、ナンパ指南が時に驚くほど不誠実な行為を効率的であるかのように吹聴するのは、相手を感情のある人間ではなく、養分となるキャベツか何かとして想定しているからだと思う。

 

相手がキャベツなら緊張することはない。泣こうがわめこうが「キャベツが何か言ってるな」と思えばいい。食べるなら状態のいいキャベツを食べたい。とはいえキャベツはキャベツ、どれも大差はない。

 

このキャベツを「男」「女」に入れ替えるとたちまちジェンダー論になるが、実際は性差の蔑視ではなく、人の尊厳の軽視だ。読み手は自分をキャベツの側に置くか、食べる側に置くかで感じ方が変わる。後者ならこうすれば美味しい思いができるのか…!と思うし、前者なら馬鹿にするのもいい加減にしろと腹が立つ。だから女性のモテ指南は男性を苛立たせ、ナンパ指南は女性を苛立たせることが多いんじゃないかしら。

 

役者が観客をキャベツだと思っているのは舞台の上にいる間だけだけど、モテやナンパがライフワークになるとエブリデイ、エブリタイム、人がキャベツになる。すごい。谷山浩子っぽい。

 

そういえば谷山浩子の小説に、頭が果物になった男たちにモテモテの老婆が登場する話があった。婆さんは次々やってくる男たちの口説き文句を適当にあしらい、文字通り頭から、というか頭の果物の部分だけ、むしゃむしゃ食べて暮らしている。「話が通じないんだから、食べるしかないじゃない」と婆さんはいう。頭をなくした男は「まったくきみはしょうがないなあ、はっは!」と言って立ち去る。また別の男が来る。あれだ。モテとは果物男が途切れることなく訪れる道をつける話だと思うと合点がいく。

 

時々どうも話が通じないと思っていたけれど、実際違う世界に住んでいるのかもしれない。モテ街道を走る人達の視点はシュールなファンタジーに満ちている。

 

お昼寝宮・お散歩宮