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愚痴と自慢の共通点

思うこと

愚痴を聞くと言外で

「この不運の埋め合わせとして何かしてくれ」と言われているようで疲れる。

頻繁に同じような愚痴をこぼす人はクレーマーのようだ。

手にしたものの欠陥を微に入り細を穿って探り出し、

補償を要求することに命をかけている。

手にしたものを使って何かすることより、そっちに情熱を注ぐ。

 

たとえば友達つきあいで嫌なことが起きた場合

そのつきあいは買ってみたけど使えなかった道具みたいなものだ。

道具を使ってやりたいことがあるときは

使いづらい道具なら慣れるまで練習するとか

使いやすいように工夫するとか

いよいよダメならそれを使うのはやめるとかする。

 

友達との交友から楽しさや信頼を得たかったら

相手を赦すとか、自分の態度を振り返って今後に活かすとか

どうしても違うなと思ったら交友を解消するとかになる。

 

でもよくばりは得るために払った代償が惜しいから

起きた嫌なことの埋め合わせとして同情、慰撫、慰謝、注目を求める。

それも当事者のみならず、当事者を取り巻く人々、当事者と共通点がある人

はては社会全体に対して自分の不幸の埋め合わせを要求する。

それが愚痴だと思う。

 

こういう人は元手が取ろうと思うあまり損切りが出来ない。

起きたことに拘泥することで人生の様々なリソースが目減りすることを厭わない。

さらには問題が解決に向かうと補償が減るような、損をするような気分になる。

それでいつまでも被害者、犠牲者でいたがる。

 

「こんな不当な酷い目に遭った」

これは苦労話。学ぶところも大きい。問題意識も育つ。考えさせられる。

 

でも続けて

「だから自分は関係者から、そしてそれを取り巻く人々から

 また彼らを生み育てた社会から、謝罪と補償を受け取る資格があるよね?」

ということを暗に、あるいははっきり言いだす人の話は本当に疲れる。

 

正当な対価として謝罪や補償を受け取る資格がある人が

周囲にそれを訴えることは何も間違っていない。

ここで書いているのは、起きた出来事を中立的な立場で判断することが許されず

見解を一方的に押し付けられることの重圧だ。

 

ここでちょっとでも冷たくしたり、そっけなくしたりすると

それも不当待遇リストに入れられる。

「同意しないならおまえもあいつらと同類だ!」ってなる。

 

でも同意したらしたで「じゃあ代わりに補償を要求してきて」とか

「額を釣り上げるのに協力して」とか、要求がエスカレートして

どっちに転んでも危険。同意もしたくないし、反対意見も唱えたくない。

だから苦労話を聞くのは勉強になるけど、愚痴を聞くのは消耗する。

そんなん言われても困るわ、知らんがな、と思う。

 

だから愚痴よりも自慢話を聞く方が楽だと思っていた。

自慢する人は「自分は満たされ、ありあまっている、もてあましているくらいだ」と言う。

話し手に感情移入していればハッピーエンドの小説や映画に触れるようで楽しい。

多少話を盛っていても、嘘八百でも、実害がなければいい。

なにしろ愚痴をこぼされるくらいなら自慢を聞く方がずっといいと思っていた。

 

でも最近

もう心の底からうんざりな自慢話、というのもあることに気が付いた。

そして聞いていて面白い自慢話と、うんざりな自慢話の違いに気が付いた。

面白い自慢話は自己完結している。

うんざりな自慢話は聞き手に賞賛と特別待遇と羨望と注目を暗に要求してくる。

うんざりな自慢話の話し手は、愚痴好きな人といっしょでよくばりだ。

 

でもちょっとでも冷たく、そっけなく反応すると、嫉妬されたリストに入れられる。

同調すれば太鼓持ちとして周囲にはべらされ、要所要所で太鼓を叩けと小突かれる。

否定もしたくないし、賛同もしたくない。

だから自慢話は面白いけど、こちらに太鼓を持たせようとする自慢話は疲れる。

要するにこちらの意思を無視して、自分が望むように反応をコントロールしてくる話は疲れる。

その点で愚痴と自慢は似ていると思った。

 

そして愚痴と自慢を交互に繰り返す人がいる理由もわかった。

これまで幸せなのか不幸せなのかどっちなんだよと不思議だったけど

他者を自分の望むように反応させたいという根の部分の思いはひとつなんだろうと思う。