あの本のこと

日本では大きな過ちを悔いている人は、その後いたるところでなるべく目立たないよう人目を避けて暮らすものとされている。目立つことは賞賛を求めることで、自己顕示のあらわれだと考えられている。だから今回の出版がそれと真逆のもの、無反省に自分をひけらかすものだと受け止める人がいるのはわかる。

 

でも社会的な逸脱行為に陥った経験を明らかにして、社会に還元する行為を勇気あることとして賞賛する文化もある。私は反省しているかどうかは人目を避けたか、対価を受け取ったかどうかでは量れないと思っている。だから本を出したから無反省、あるいは勇敢だとは言えない。

 

ただ社会が刑務所を作っているのは、入所者が更生して、社会にその能力や経験を還元して、同様の問題を未然に防ぐ一助とするためで、有害な人間を断罪して隔離するためではないとわたしは思う。

そのために税金を投入して受刑者の健康や人権を保護しているのだと思っている。服役して戻ってきた人は、そうやって多くの人が関わって、社会に呼び戻した人だ。

 

その人たちはまた何らかの仕事を持って、社会に貢献して生きて行かなければならない。金儲けだってしないといけない。美味しいものだって食べるし、人とかかわって愛して愛されて生きていく。そうでなければ社会がまた税金で保護しないといけない。そんなこと、誰が望むだろう。それとも自死しろというのか。

 

被害者と加害者の間のことは当事者にしかわからない。求められもせずゆるせとかゆるすなとか外部の人間は言えない。なんらかの形で仇討や復讐がなされても、それ以前に無関係だった場合と同様には裁けない。そしてその人たちに変わって加害者を私刑に処すことに関しては、さらに慎重にならざるを得ない。

 

わたしはジョン・レノンをはじめ、不倫で離婚して子供をおいて再婚した人たちとにどう接していいか、長いことわからなかった。わたしの愛する人に酷い子供時代を送らせた人や、愛する人の最期に残酷なことをいくつもした人たちのことも。

 

そういう人たちに、そうでない人たちと同じように接するのは、犠牲になった人に対する裏切り行為なんじゃないかと思った。自分を死ぬほど苦しめた原因を作った人が、社会から温かく迎えられていたら、犠牲者はどんなにつらいだろうと思った。

 

でもそんなの究極的にはわたし個人ではどうしようもないことだ。だってわたしを含めて罪を犯していない人なんていない。個人的に関わりたくないと思う生き方はある。でも誰かを傷つけた人とかかわらないでいようと思ったら一人になるしかない。

 

各自が自分の罪にふさわしい扱いを受けるよう采配すべきだというなら、それはもう神の領域だ。わたしに出来るのは目の前の人たちが少しでも健全で前向きに生きていけるよう関わることだけだ。

 

被害者に家族がいるように加害者にも家族がいる。加害者の命を大事に思い、生きてほしい、幸せになってほしいと願う人もいる。どちらの命も同じ価値がある。それとも命の価値を値積りできるような人間がこの世にいるのか。

 

罪を犯した者が「普通に」生きてきた人と同じくらい、あるいはそれよりも更に恵まれた立場になることが許せないと言う人達はおかしい。周りが認めようが認めまいが、罪を犯した人にも人並みに幸せになる権利はある。不幸は自業自得ばかりではないし、幸せも功績じゃない。そんなのおかしいと思うなら神様に文句を言うしかない。

 

金賢姫は犠牲者、被害者だという声が多かった。求婚者が殺到した。彼女の罪は彼女一人の責任ではないと多くの人が思った。

 

わけのわからない空虚感で大きな罪を犯した人がその経緯と結末を人に強いられない形で明らかにするのは、同様の虚無で犯罪を犯す人が増えている現在意義のあることだとわたしは思う。

 

彼がわたしたちとはまったく異質のシリアルキラーで、そんな話は読んでもまったく参考にならないとでも思いたいのか。それは子供を虐待する母親に母性がないとか異常だとかいうのと同じなんじゃないのか。

 

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