足つぼマットと吉行淳之介の不感症指南 追記あり

むかし実家にあった吉行淳之介のエッセイに不感症を治す寺の話があった。

不感症の女性を寺にあずけ、朝から晩まで和尚が女性の脇の匂いをひたすら嗅ぐ。

女性ははじめは何も感じないが、そのうちくすぐったがるようになる。

これは性感が目覚め始めた印なのでそこでやめてはいけない。

たいていは数日から一週間で治るという。と、書かれていた。

 

わたしの脳内には、暗く冷たい寺の本堂の板張りに横たわる女性と、その脇の下に鼻を突っ込む和尚の姿が刻み込まれ、以来その姿が消えることはなかった。

脇の下の匂いを嗅がれることが快感に変わるとはどういうことなのか。

 

最近聞かないけれど、昭和の終わりだった当時、不感症という言葉はあちこちで目にした。手塚治虫の歴史医療漫画にも行為の最中声を上げない女性が出てきて、医師は治療と称して快感攻めにしていたし、中高生向け少女漫画だった松苗あけみの「純情クレイジーフルーツ」の最終話にもヒロインが「でも私やっぱり不感症だった」とつぶやくシーンがあった。

それで「不感症というのは性的な快感を覚えない女性のことで、そういう女性と結婚すると夫婦関係が難しくなるらしい」とおぼろげに理解した。

 

平成が来て、大人になって、結婚して、思った。

昭和のころは女性がセックスを不快だと思うのはパートナーのやり方の問題ではなく、「不感症」という体質だか病気だかのせいだとされたんだろう。*1

そしてそれを「治す」ため、医者や坊主のところに軟禁して、セックスが気持ちがいいと言うまで帰してもらえなかったんだろう。

坊主にこれ以上脇の下を嗅がれたくなければ、恥を忍んで快感に溺れている演技をするしかない。そして再び寺に送り込まれないためには夫に求められたら演技をせねばならない。

寺の床に横たわる女性と和尚というあの地獄絵図が意味したところは、本当に地獄だったんだな、と。

 

ところがですよ。

その後も熱心に熱烈に足つぼマットを推してくる知人が、先日こう言ったんですよ。

「初めてセックスするときってどこ触られてもくすぐったいじゃん。それがだんだん開発されて気持ちよくなる。あれと一緒。始めは痛いところも続けていると気持ちよくなってくるんだよ」

え、そうなの?

人類共通の体験みたいに例えられたけど、そんなの経験したことがないんだけど。

わたしはものすごくくすぐったがりで、くすぐられるのは大嫌い。首とか脇とかくすぐったいところに手をかざされたぐらいでもう不快。くすぐられたら笑う間もなく激怒して暴力に訴えずにはおかない。夫が何かの拍子にうっかりくすぐったいところに触れたりしても許さない。だからもちろん「くすぐったさに耐えてそれがいつしか快感に」という経験もない。

 

自閉症のわたしは聴覚過敏、視覚過敏痛に加えて触られると怒るといういわば触覚過敏なところがある。それは味覚にもあって、ごく一般的な味付けが胃や舌の痛みになって返ってくることもある。

食べられるものが少ないと味わえるものが減るみたいに、受け付けないから知らない感覚の快楽というのがあるのだろうか。傷みもくすぐったさも「すべての五感は快感に通ず」という説は五感のゲテモノ食いという感じだけど、なんかそっちのが豊かな人生なんじゃないかと思えてきた。

そういう人にとっては吉行淳之介方式も効果があるのだろうか。女性が音を上げるまで嫌がらせをする方法だとずっと思って来たんだけど、あれ本当なのだろうか。

 

ちなみに同じく吉行淳之介方式は拷問だと思っている夫も、わたしに負けず劣らずくすぐったがりで、首や耳に触ろうとすると「ッシャーー!!」と言う。我々は、貧しいのか。

 

追記:このエントリーに純情クレイジーフルーツの最終回をもとめて検索してくる人が多いので、書きました。

kutabirehateko.hateblo.jp 

あと、くすぐったがりは開発すると感じやすいというのは誰だったかな?誰か「このひとがいうならそうなんだ、本当に!」と思う人が言っていたので、本当なんじゃないかと思います。

 

でも不感症なのか反応の薄い妻を謎の城に送り込んで監禁し、謎の集団から性的に開発しまくってもらうという渡辺淳一の「シャトウルージュ」では、(ネタバレですが)妻は夫の元に戻ってから夫の下手さ加減に耐えかねて失踪するという結末でした。

やっぱよそで開発しても伴侶がダメならダメなんじゃないのかな。

*1:「不感症」に替わってよく目にするようになった言葉が「セックスレス」。現代ではセックスしたがらない女性は病気だとは言われなくなったのではないかと思う。

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