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ゆるさせようとする人たち

エッセイ的なもの

ゆるさせようって変な日本語でしょ。
ゆるしって本来人に強制することじゃないからなんだろうと思う。
人にゆるしを勧めてそれがまずまず妥当なのは、飲みの席での馬鹿々しい言い争いくらいだろう。
 
人の苦労話を聞いた人が、最後に
「その人をゆるすことがあなたのためだ」
と言い出すことがある。ものすごくよくある。
 
ゆるせない →こだわっている→生きづらい

ゆるせば生きやすくなる
 
という図式。
でも違うよね。
 
問題がある →関係者がゆるせない→こだわっている→生きづらい

関係者をゆるしても問題は続く。むしろ関係者を無関係にすることで問題は曖昧になることもある。
 
 
母親の呪縛〜自己肯定できない女達
こちらで母親との関係がこじれて自己肯定が難しい女性の話が出ていた。
ははあ、なるほど。と思って読んでいたら、後半で唐突に

受けた寂しさの、程度の差は相当あるけれど、

それでも私たちはそろそろ、母親をゆるしませんか?

とあって、え!なんで?!と思った。
 
「ゆるす」にはまず「ゆるせない」という過程がある。あれはゆるせないことだったと怒る過程が必要だ。
親が悪いと認識し、憎み、ゆるすことが出来るなら、それは健全な子供だろう。
でもこじれた家ではそんな風に話は進まない。
「あれは何だったのか」という困惑と違和感から脱するまでにかなり時間がかかることも多い。
親を憎んで自分を守るどころではない。なんとか自分が親を、世界をなだめようと悪戦苦闘するのだ。
 
幼い兄弟と共に親に遺棄され、出口を封じられ餓死寸前に追い込まれた3歳の子供が、救出されたとき
「ママ、遅いよ!」と言った事件があった。子供は親がうっかりしたのだと考えたのだ。
「(餓死した弟を)いっしょうけんめい笑わせようとしたけど、だめだった」と言っていた。
  
この子供に「受けた寂しさの、程度の差は相当あるけれど(略)ゆるしませんか?」とは私は言えない。
一方でこの子の21歳の母親に弁護の余地がないとも思わない。
その子供が当時の親をどう見るかは第三者として立ち入れない分野だと思う。
弁護の余地のない親だから憎めとか、弁護の余地があるからゆるせとか、外野が言えることではない。
私はこう思う、というのはあるけれど、それに基づいてゆるせ、ゆるすなとは言えない。
 
今になって親をゆるせない人の大半はいじらしい子供時代を送っている。
親自身を慰め、周囲に対して親を弁護し、時に耐え切れず親を憎み、そのことでまた自分を責める。
その堂々巡りに耐えかねて生きることが苦痛になる。
そして一部はめでたく「どうも親がよろしくない」と気付いて精神的、物理的に距離を置く。
 
第三者に資産や時間を、そして尊厳を奪われたとしたら、対抗手段を取るのは当然のことだ。
法的手段に訴えたとしても何ら責められることはない。
火事にあって火が怖いという人に「火事をゆるせば楽になる」という人はいない。
まして「放火魔はかわいそうな人だから親切にしてやれ」とはふつう言わない。

性暴力被害者に性暴力加害者が自分の苦労話を切々と語るという冗談みたいな話がある。
そんな話を聞いたところで焼きついた恐怖や屈辱は和らがない。
同様に、一部の親が子供に対してしたことは、親の苦労話で中和できるものではない。
 
しかし過去の傷に苦しむ第三者に「ゆるせ、ゆるせ」と勧める人は後を絶たない。
「人をゆるすことで楽になる」という言葉を念仏のように信じている人もいる。
でもゆるせという人の中には相当数の「この話はもうたくさんだ」と思っている人がいると思う。
人の苦労話は面白くない。未解決ならなおさらだ。自分の痛い腹を探られる話ならもっと嫌だ。
「母親が酷い?きっと母親にも事情があったんだろう、母になってみればわかるよ」
一人の女性として見てあげませんか?
いやいや、他人だったら絶縁どころか裁判沙汰な人もいるだろう。
 
被害者に「ゆるせ」ということは簡単だ。
提案する側は問題解決に何ら関わらず、加害者側にも何も働きかけなくていい。
弱気になって物事を決定できずにいる哀れな被害者に無理を強いるだけでいい。
「相手をゆるすことです」「それがあなたの問題を解決するのです」
慎重派はさらに「問題を解決するための第一歩です」と言う。
実際には「ゆるした」ところで苦痛はまったく癒えないことがあるからだ。
 
ゆるせば楽になります。(楽になれないのはゆるしていないからです。)
あなたは自分で幸せになることを選べます。(あなたが辛いのはあなたのせいです。)
あなたが幸せになれるかどうかは起きたことではなく、あなたがそれをどう考えるかです。(あなたの身に過去に何が起きたとしても、いまあなたが不幸せならそれはあなたの考え方が悪いせいです。)
どんなに親切そうな顔で優しく言っていても、結局意味するところこういうことだ。
だいたい被害者は丸められ慣れており、無理を強いられ慣れている。
こうして被害者は万能者に祭り上げられる。万能なんだから全部自分で何とかしろ。
 
実際にはゆるしたから楽になったのではなく、楽になったのでゆるす余裕が出来るのだと私は思う。
その種の余裕はいま安心できる場があり、愛し合える仲間や家族がいることから来る。
その場を作るために親をはっきり敵に回して逃げる必要がある人がいる。
 
笑えることがあり、打ち込める仕事や趣味があり、目標や夢があること。
居心地のいい住まいがあること、衣食が満たされていること。
「生きていてよかったな」と思える一瞬に出会い、ふと過去が辛いまま、小さくなっていることに気が付く。
もういいや、と思える。
事情を斟酌してやれることもあるだろうし、弁護の余地なく相手が悪いと冷静に判断することもあると思う。
いずれにしてももういいや、と思える。それがゆるすということだと思う。
 
辛い過去を持つ人を癒すのは「ゆるせば楽になるからゆるせ」という受け売りの言葉ではない。
いまの幸せを支えてくれる人がいることだ。
行政を利用できるよう助けてくれたり、今日の晩御飯を届けてくれたり、黙って隣にいてくれたりの積み重ねだ。
事情を何も知らない人の何気ない一言で、涙が出るほど勇気づけられることだってある。
そういう奇跡の瞬間を人為的に起こせと人に強いるのは、よほど傲慢な人間か、かなり考えなしのやることだと思う。
 
そうは言っても手間暇かけて世話しても糠に釘に思えたり
悪夢のような生い立ちを延々相談され続けてうんざりすることもあるだろう。
だったら「ゆるしてあげませんか?」なんて言うより
「ちょっともうわたしキャパオーバーだから帰って!」って言う方がよほど誠実だと思う。