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汎用性のある批判文と今だけの常識

今日父が同世代の友人に自分の孫を見せ(びらかし)ながら
「あんたのとこも(子どもが結婚したら)すぐこんなのが生まれるよ」
と上機嫌で言っていた。言われた側は「一人っ子だし、年も行ってるからねえ」とちょっと難しい顔で笑ってた。
 
もうパパったら子どもに関して揉めてる可能性もあるのに余計なこと言っちゃって。マナーがなってないわ。と思った次の瞬間、こんなことを思ったんですよ。
 
「もしかしたら〜かもしれない、だから軽々しく意見を言ったりすべきでない」というのはかなり汎用性が高いんじゃなかろうか。
 
一緒にご飯を食べてる人のお茶碗が空になったとき「ご飯のおかわりは?」って言うことありますよね?もしかしたら食事制限があって一杯しか食べられない人かもしれないのに。貧しくてお代わり食べられないのかもしれないのに。給食でお代わり頼んでやな感じに断られた過去があってやっと立ち直ったばかりかもしれないのに。そういうことを考えたら聞くべきじゃなかったね!想像力欠けてるね!
 
最近「子供を作るのは鬼畜の所業。それか馬鹿。」っていうエントリーがあった。鬼畜って言いすぎじゃない?でも、あれを書いた人がエレファントマンだったら?犯罪被害者だったら?激痛が走る発作の真っ最中だったら?お腹下してるくらいの痛みでも人生を呪いたくなることがあるんだから、鬼畜は言い過ぎだなんて軽々しく言えないよね!考えが足りないね!
 
ね。特に「考えたらわかるはず」というニュアンスで迫られると無条件に論理性があるかのように思えてしまう。でもこれって思考停止の罠なんじゃないかな。実際首をかしげるような文脈でこう言っる人を時々見かける。それになんでもかんでも「〜かもしれないんだからすべきではない」って考えてると、しまいには何も出来なくなっちゃう。
 
わたしはいまの日本でご飯のお代わりを勧めるのは感じいいことの部類だと思うし、子どもを作るのは鬼畜の所業だと思わない。でも父のように、よそ様のお子さんの結婚話を聞いて「孫がすぐ生まれるね!」と朗らかに言うことはちょっと剣呑な話題だと思う。それなのに常識ある社会人としてそれなりに渡世してきた父はどうしてそう思わないのか。「ちょっと考えたらわかるはず」の考えに至らないのはなぜなのか。
 
恐らく父にとって妊娠出産に問題があるというのは千人万人に一人の例外中の例外なんじゃないかな。もちろん長い人生そういう人には何人も会ったことがあるだろう。顔も広いし。でもそういうとき父は「珍しい人に会った」と思っているんじゃないかな。たとえばエベレスト登頂成功者に何人会おうと「エベレストくらい誰でも登れる」とは思わないように。
 
また子どもがいない・持てないというのは恐ろしいことだと思っているから、相手にその可能性があると考えるのは基本的に失礼だと思っているんじゃないかな。「結婚します」と聞いたら「もちろんすばらしいカップルなのでしょう。おめでたいことに決まってますよね」という意味で「おめでとう」と返すのが礼儀で「もしかしたら理由ありの不本意な偽装結婚かもしれない。だとしたらおめでとうなんて迂闊なことは言えない」と考えたりしないように。
 
わたしにはそういう「もしかしたら〜かもしれないから触れないでおこう」という話題が年々増えている。そしてその話題に触れる人を見るとぱっと「考えたらわかるはずなのに常識ない、無神経」と思ってしまうことがある。
父の世代は出産と結婚は切っても切れない関係で、幸福な人生を歩む上で家の屋根みたいに欠かせないことだった。だからお祝いの言葉、ごきげんうかがいの意味で「お孫さん、お子さんはまだですか?」と言うのがマナーだった。
 
現代では高齢出産が珍しくなって、それに伴うリスクの影響は団塊世代とは桁違いにある。それに伴う悩みも出てくる。同性婚も認められつつある。だけどこの辺の事情の変化は展開が急すぎて知れ渡っていないんじゃないかしら。それで普遍的に使えるマナーとして、誰にでも有益なアドバイスとして、子どもの話題を振る人がいるのかもしれない。
それを否定されたら怒るよね。普遍的な価値感だと思ってきたんだもの、なかなか受け入れられないよ。
 
わたしもこの先「出産は十代、育児は四十代、血縁主義はナンセンス、基本は養子縁組」という時代に「お母さんによく似てますね〜」とか言っちゃって、「血縁に固執してる、嫌味当て付けと思われて当然、 非常識!」って次世代にリンチに遭わされる可能性もある。あまりいまだけ限定の常識を振りかざさないよう気をつけようと思った。