魂と入れもの

わたしが今日ここに祖父のことを書こうと思ったのは

父一家の悪行を書き記すためではない。

わたし自身が祖父をどう見たらいいのか、わからなくなったということだ。

 

祖父のことを考える時、わたしのイメージは60代から70代のころの祖父だ。

目の前の祖父がそのころより弱々しくても「これは仮の姿だ」と考えている。

でも、ほんとにそうなの?

 

甥が12歳になったとき

甥は13歳になるまでにいまの自分を忘れてしまうだろうと思った。

12歳で人は一度死ぬと誰かが書いていた。

 

はるかぜちゃんが新鮮なことばを次々ツイートしていたとき

この子は13歳になったとき一度死ぬだろうと思った。

子どもは脱皮するように、知らない間に死んで、生れ変る。

 

甥はその後急激に成長してこの3年間で何もかもが変わった。

まるで前世の話みたいだ。

甥はいろんなことを覚えているし、顔だって面影がある。

でもあの甥ではない。だからあの甥として接すると噛み合わない。

 

楳図かずおの「わたしは真悟」で小学生カップルのまりんが

「もう子どものときの私たちには会えないわ!!」

と泣いている場面がある。見ると何か思い出すように胸が苦しい。

 

12歳の自分は一つの完成を見ていた。出来上がり。集大成。

でも13歳になるまでの間に人生ステージが変わって

そこは頂上じゃなくなった。そういう変化って毎年じゃない。

 

あのときのわたしは確かにこのわたしだけど

いまのわたしじゃない。上手く言えないけど。

 

だとしたら

かつての祖父は確かに目の前の祖父だけど

いまの祖父とあのときの祖父とは別人なんじゃないだろうか。

 

かつての祖父に接するつもりで今の祖父に接するのは

20代の森高や岡村ちゃんに会うつもりで

40代の森高や岡村ちゃんのコンサートに行くようなものなんじゃないか。

 

それはおかしい気がする。

 

でも祖父はあのころとどう違うのか。同じ人じゃん。

魂は同じだ。

出来ることが増えたり減ったり、身長体重が増えたり減ったり

それがその人が別人になるということなんだろうか。

風邪ひいたり下痢したりしてるときと治ったときとでは別人なのか。

それも違う。やっぱり上手くいえないしよくわからない。

 

というか

「今の森高や甥がかつてのあの人たちではない」

と認めることにはまったく抵抗がないんだけど

「今の祖父はかつての祖父ではない」

と認めることにはとても抵抗がある。罪悪感すら覚える。

「かつては立派だったけど」まで考えるとすぐに

「ほらね!もう年なのよ!」とドヤ顔の継母がちらつく。

 

でもおじいちゃまは本当にすごいんだ。

譫妄状態真っ最中もずっと、人に面倒をかけまい、自分でやろうと思っていて

訳の分からない方法ではあったけど、孫子の面倒を見ようとしていたんだ。

自分があんな状態になったとき

どんな腹の底のえげつなさを暴露してしまうかを考えたら恐ろしかった。

こういうときに人柄が出るんじゃないかと思った。

 

おじいちゃまが洗面所へはいけない、洗面器に吐けと言われたとき涙したのを

継母は「わがまま聞いてもらえなくて泣いてる」みたいな顔で見てたけど

おじいちゃまは自分の面倒を自分でみられないことに泣いていたんだ。

人が自分の思い通りにならなくて泣く人は大勢いる。

おじいちゃまはいっつも、自分が人の役に立とうと思ってる。

 

こうやって考えていくと

やっぱりおじいちゃまはおじいちゃまだと思う。

そして自分が試される。

これまでさんざん祖父の人格を絶賛してきたけれど

遊んでくれる、車に乗せてくれる、小遣いをくれる、面白いことを言う祖父と

いい匂いがしない、逞しくもない、話も弾まない、手がかかる祖父

言い換えたら

関わることで自分にダイレクトなメリットのある祖父とない祖父を

同じように愛しているのかと。

 

これから通院するようになったら

ほのぼのと楽しいことばかりじゃないかもしれない。

祖父の魂の輝きは変わらないのに

御労しいと思ってしまうこともあるかもしれない。

そのとき自分は祖父にどんな感情を持つだろう。

 

そしてわたしはどんな風に歳を重ねて死を迎えるんだろう。

正気を保って人間らしい身繕いをしていられるだろうか。

誰かそばにいてくれる人がいるだろうか。