自由と公正と癒し

先日ある人の講座を聞いていたら自分に該当するチェックポイントで

「こういう人の場合、欲しいものと追い求めるものが違う」

と解説されていた。

 

欲しいものと求めるものが違うケースはいろいろあるのだけれど

わたしの場合は理屈を超えた人の情念を欲しいと思っているのに

手に入れようとするものは客観的な正邪、公正ということだった。

 

わが子を世界一愛しいと思うことに合理的な理屈なんてない。

恋した相手がどんなハンディを持っていても他の誰とも取り替えたくないと思う、その種の愛情。

人からみたらささいなことなのに絶対に許せないと思う執念深さや嫉妬心もそう。

そのためだったら命をかけてもいい、命を奪うことも辞さない。

人の心の奥深くの、物差しで測れないそういう情念をわたしは欲しがっている。

 

でもわたしが手に入れようとするのは主観や慣例や常識に縛られない絶対的な自由と公正さだ。

それは愛する人が被告となる裁判で、裁判官や検事になることができるような客観性。

 

情念の世界では心変わりと別離は身を割かれるほどの悲劇だ。

でも客観的に見れば人が自分から去っていくことは間違いとは言えない。

人には誰を愛するかを選ぶ自由があるから。

 

人は間違いを犯す。無邪気さや無知、無神経さ、鈍感さから人を迫害することがある。

だからその種の愚かさからくる悲劇で人を悪人としてなじることはできない。

その悲劇が自分や自分の最愛の人に臨んだとしても。

理屈が通じない情念を欲しがりながら、絶対的な自由と公正をわたしは追及している。 

 

その講座のチェックポイントで該当するケースを見るとそういうことになる。

 

今日ふと思ったのだけれど

わたしはいま父がわたしたち家族の心情を軽く見ていることに深く傷ついているのに

父のしていることが客観的にどの程度の悪で、どう扱われるべきかを考えている。

でも何等かの正義が見出せたとしてそれで心が癒されることがあるだろうか。

 

父がわたしたち家族の心情を軽く見ていると思うのはたとえばこんなことだ。

父は以前離婚原因になった女性と南の島にバカンスに行き、わたしに大きな貝殻のランプを買ってきた。

後に母と父がその旅行の件で言い争いをしていたときわたしと父も争った。

「パパはわたしにお土産を買ってきてくれたでしょう」

「そうだ。俺はお前たちのことを忘れていなかったからだ」

「覚えていたならどうしてそれをわたしたちがどう思うか考えてくれなかったの」

 

考えていたからこそ遠く離れた島から土産物まで買ってきてやった。愛している証拠だ。

父はそう考えたかもしれない。でもわたしたちはこの件で確実に傷ついた。

ところがわたしは時々ここで少し混乱してしまう。

父が会議三昧の出張で家を空けるのと愛人とバカンスで家を空けるのとでは

家に残されたものが受ける影響は実質どう違うのかを考えはじめてしまうからだ。

 

そしていつのまにか目に見えるもの、客観的に計測可能なもので考え始め

「そのお金は家計や会社の経費から出ていたのではないか。他人と旅行に行くために家計費や経費を使うのは正当ではない」という風に話が進む。

 

父は「俺の会社の金は俺の金。俺の家の金は俺が俺の金」

と思っている。

「俺の時間と俺の金を使って何をしようと俺の勝手だ」

こうして問題は父のブラック経営ざる経理と家計のやりくりに転嫁される。

けれども要点はそこではない。

父のポケットマネーから出たのなら大団円というわけではないのだ。

 

父はここ数年、ある女性と南の島でキャッキャウフフする日々を送っている。

おそらく肉体関係はない。年に数回泊まりで出かけてキャッキャウフフしてるだけだ。

二人きりでもない。だから誰にも咎められることはないと思っているのかもしれない。

 

ここでまた混乱してくる。いちゃいちゃは恐らく民事ですら不介入である。

世の中には確かにいちゃいちゃがあるが、いちゃいちゃは計測しようがない。

しかし一瞬目を合わせるだけ、朝の挨拶を交わすだけ、電話で「もしもし」というだけでもそこにいちゃいちゃが存在することは客観的にも明らかという状況がある。

パートナーを持つ人間のこういういちゃいちゃにどう対処すべきなのか。

 

父は昔から「大っぴらに連れて歩けば周囲はやましいところはないと思うだろう」

と思っている節があり、すぐ女性を連れて歩きたがる。コソコソは危ないと思っている。

しかし当然ながら周囲はその不自然な一体感にやがて違和感を覚える。

 そして何気ない会話から二人がただならぬ仲だと気づく。

父の中では作戦のつもりなのだろうけれど恐らく単純に欲望に忠実に従った結果

家に連れて来たり連れて歩いたりするのだと思う。

いちゃいちゃする相手と一緒にいるのは楽しいもんね。

 

そのようなわけで今回の彼女は自宅にも何度か泊まりに来ている。

彼女の食事の支度、寝室の掃除、リネンの洗濯は父の三人目の妻、わたしの継母がする。

父のほかの友人知人をもてなすのと同じように。

継母が彼女をあまりよく思っていないことは態度からわかっていた。

父との仲をどこまで感づいているのかはわからない。

 

わたしは自分に父の血が流れていることを強く感じる。

だから父を見ていると自分にその浅ましさがあるのだと感じて二重に苦しい。

父はなぜ妻の傷口に妻自ら塩を刷り込ませるようなことをさせるんだろう。

 

わたしが困っているのは

わたしが父の不実さをどのように感じ、どう反応するかはごく個人的な問題なのに

今後父とどのように接するのが公正なのか

また父と同様に家族を裏切った人たちをどのように見て

いかに振る舞うことが正しいかと考えてしまうということだ。

 

たとえばジャッキー・チェンに対して。

ジョン・レノン糸井重里やミスチルの桜井に対して。兄や弟に対して。

アイン・シュタインやユングやピカソに対して。友人知人、顧客に対して。

 

彼らの業績や作品に好感を持つとき

わたしは彼らの裏切られた家族に対していつもやましさを感じる。

父が家族を裏切ったとき何事もなかったかのように交流し続けた人たちに

自分たちの痛みはこの人たちになんら影響力を持たないと感じたことを思い出すから。

 

 

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