空気は読んだあとがだいじなんだよ

アスペルガーって空気が読めないんでしょ」と聞く度にちっげえよ、と思いながら顔に出さずにニコニコしているはてこです、おはようございます。
 
昨日、夏の街角でさりげなく全裸になった少女たちを本屋さんや公園で見かけることの出来たブラトルバラサマー2006と、五月の半ばに路上でゲリラ裸踊りをしている19歳男性が現れたブラトルバラ・アーリーサマー2007について書いたところ、「空気読めってことだろ」「条文化しとけよ」というつぶやきを見かけました。ちんこ出すのはいいけどしごいて踊るのは禁止とか条文化するために税金を使わなきゃいけないほどバーモントの住人はバカではないと思います。空気読んでもそこで終わったらダメなんだよ。
 
Wikipediaによると空気を読むとは相手の表情から気持ちを読むこととなっています。アスペルガー症候群(以下AS)である自閉症者のわたしはしばしば「空気が読めない」、つまり相手の気持ちを読めてないと言われてきましたが、実際にはASは相手の気持ちがわからないのではなく、背後にあるロジックを取り違えることがあるのです。なぜなら自分は定型発達者のように考えないことがしばしばあるから。人はまず自分を基準に相手の気持を想像しますが、ASは定型発達者と違う発想をするのですね。文化的、社会的背景の異なる人同士で相手の意図を取り違えることがあるのと似ています。
 
夫にすすめられてプーチン大統領オバマ大統領が会食している動画を見たときのこと。
二人は通訳や警備の人々をどっさり従えて、涼し気なガーデンテラスの低い椅子に向い合って座っていました。庭は快晴、芝生は緑。プーチン氏は一人、さっさと茹で卵を手にとって食べ始めました。ロシア貴族のマナーには「いただきます」とか「ではみなさん、どうぞ」はないんだなとわたしは思いました。その後背筋をビルのようにまっすぐにして背もたれと背中を一体化させ、身じろぎもしないプーチン氏を見て、ロシア貴族の食事マナーでは背筋を伸ばして深く腰掛け、体を動かさないことがとても大切なようだとも思いました。わたしはロシア文学で読んださまざまな食事シーンを思い巡らしました。あの賑やかな食卓でも、彼らは背筋を伸ばして座っていたのだろうか。
 
一方オバマ氏は座るなり靴下のゴムを引っ張って直しました。食事前に、招いてくださった方の目の前で靴下をいじるのはちょっとお行儀が悪い気がしますが、オバマさんて上流家庭出身じゃないのかな? でもマナースクールみたいなものには行ってそうだよね。「大草原の小さな家」でマナーにうるさいお父さんが肘をついていて驚いたのを思い出します。まだ食事は始まってないという認識なのかな? オバマ氏は背もたれに寄りかからず、前かがみで身振りを交えて話しています。プーさんが動かないのでオバマ氏の身振り手振りの多さが目につきます。アメリカだなあ。
 
動画を見終わると夫が「すごいよね」と言いました。
「何が?」料理が? オバマ氏の話が?
プーチンの威圧する雰囲気に周りが固まってるのに、オバマが気にせず話を続けてるところがさ」
「え? そうだった?」
夫は驚いた顔で「ええ? わからなかったの?!」と言いました。
わたしが自分の感想を話すと、夫はちょっと間をおいてため息をつき、「きみは、アスペなんだね…」と改めて確認するようにひとりごちました。
 
夫はプーさんがお行儀よくロシア式マナーを守って食事をしているとは思わなかったようです。そうか、多くの日本人はプーさんがお食事の席でお客さまを威圧していると思うんだなとわたしは思いました。とりあえず笑顔という国民性ですものね。でも、ヨーロッパの人が真顔にしていると怒っているように見えることはよくありますし、プーさんふつうにしてても怖いですから、わたしには特別追い込みをかけていたようには見えませんでした。
 
オバマ氏がプーさんの態度をどう思っていたのかはわかりません。ただ、オバマ氏が「空気が読めなかった」つまり「プーチンの表情から気持ちが読みとれなかった」から動じずに話していたとは、わたしは思いません。相手が怒っていようが喜んでいようが、なすべきことをなさねばならぬことはあるからです。いぜん書きましたが人を傷つけてはいけないという考えに基づいて、不確かな場の雰囲気を壊すことを恐れ、相手主体で行動していては、政治取引なんて出来ないこと請け合いです。“空気を読む”とは相手の希望に沿って行動するということではないのです。嫌がるお子さんを歯医者に連れていくお母さん方はこのことをよく知っています。
 
では、場の空気が読めるとなぜ円滑な人間関係に役立つのか。
相手の気持ちがわかれば、その場の状況の背景にあるものを推測することができるからです。シャーロック・ホームズは現場に残された物的証拠から事件を解き明かしましたが、エルキュール・ポアロは関係者の感情を元に事件を推理しました。そのような感情をもつに至った過程をたどることが出来れば、相手がこれからどう行動するかの予測を立てることも出来ます。けれども、その行動に対して自分がどうするかということは、やはり自分自身で決定しなければなりません。
 
みんながやっている、みんながやらないというのは当てにはなりません。みんな揃って大間違いということがないわけではないからです。「ふつうこうでしょ」とか「これまでこうだった」というのも同じです。周りに合わせて行動するのは自由ですが、その結果を刈り取るのは自分自身であり、誰も責任をとってはくれないのです。
 
わいせつな裸踊りを決行してお巡りさんの手を煩わせた青年が、それならばと着衣でちんこを強調し、路上でしごきながら踊ったらどうなったでしょうか。腰をくねらせ、ズボンのファスナーの上からしごく分にはOKだったでしょうか。
ブラトルバラの住人は、青年の全裸が不快だったのではありません。全裸に罪はありません。人は生まれ持って罪深いとは全裸で産まれてくるからだと思ったら大間違いです。彼のアンダーウェアに蜂が侵入して彼の局部を刺したのなら、彼が全裸になって狂ったように股間をさすっていても誰も咎めはしなかったでしょう。