竹やぶと赤の女王

むかし住んでいた家の裏には竹林がありました。
春になると塀の下をくぐり抜け、庭になよっとした細身の竹の子が生えてきます。祖母はこれを上手に料理しましたが、母のアク抜きの腕は祖母には叶いませんでした。
 
この竹やぶは子どもたちにとって夢とロマンの溢れる場所で、私たちはしばしば大人に内緒で竹やぶに潜入し、どこまで行けるか試してみたり、捨ててこいと言われた子猫を隠したりしました。一時期私たちは秘密基地作りにはまり、机の下から始まって、木の上、倉庫の一角、可燃性で爆発する恐れのある会社の資材の山の中と、ジプシーのように移動を続けましたが、この竹やぶに基地を作ったときほど基地作りが盛り上がったことはありませんでした。
 
私たちはナタや糸鋸を家からくすね、竹やぶの中央付近を切り拓き、切り倒した竹の枝を落とし、櫓を組んで荷紐で縛り、その上に落とした笹の葉をかぶせました。子ども数人が余裕を持って座り、一人二人なら寝ることができるだけの広さもありました。ここまでやるのにおよそ一月程かかったと思います。私たちの歓びはひとしおでした。
ついにやった。ここは自分たちだけの秘密基地。雨が降っても濡れないし、大人は誰もやってこない。
私たちはたいへん誇らしい気持ちで、各々ちょっとした食べ物や飲み物を持ち寄り、薄暗い竹やぶの中の、さらに光がささない櫓の中に漫画を持って来て座りました。幸せでした。
 
それから数年。竹やぶの隣に住んでいた祖母が眉をひそめて、姉の所有地に浮浪者が侵入した形跡がある、と恐ろしげに言いました。
「竹やぶの奥に、変な家みたいなものがあった。誰かあそこに出入りしてたんだよ」。
すでに成人していた私はそのとき初めて、自分のしたことが大伯母に対する不法侵入であり、竹やぶを勝手に切るのは犯罪だったと気付きました。
 
栗林で栗を拾ったことがありますか。
観光地に住んでいたことがあるのですが、栗林にイガイガと栗が落ちているのを見て、感激して拾おうとする人は毎年います。親子連れで楽しく栗を拾っていると、栗林の持ち主が現れ、この栗は自分のものだと説明します。そうです、たいていの山には持ち主がいるのです。気不味い瞬間。
ほとんどの人はそこで謝罪し、栗を返し、栗林の持ち主はたいした量でなければそのまま栗を持たせ、次回から気を付けるように言っておしまいです。こういうことはどうかすると椎茸を育てている最中にも起こります。
 
事実を知ることで、それまでの楽しみを諦めたり、楽しみ方を変えたりすることがあります。
 
栗の樹に持ち主がいると知った人の中には、持ち主が困らない程度に拾うのは構わないが、転売するのはいけない、と考える人もいるでしょう。たとえ一粒の栗であっても人様のものを黙って失敬するのは泥棒だと考え、拾うのをやめる人もいるでしょう。
持ち主を探し出し、許可を取って、対価を払って拾わせてもらおうと思う人もいるでしょう。盗らないで撮ることにしようと考える人もいます。
ただ「持ち主が怒るからやめる」と思う人は、人の持ち物を盗むことの是非について考える機会を逸します。
 
それは「あのおじちゃんが怒るよ」と言って子どものいたずらをやめさせるようなものです。
子どもは「おじちゃんが怒るから」とおじちゃんの恐ろしい暴力に抵抗しないかもしれません。
おじちゃんが怒らないように丸め込んでしまえば、何をしてもいいと思うかもしれません。
  
「『自らの良心に基づいて自分を裁く』とは、人にどんな影響を与えようと好き勝手なことをしていいということだ」
と思う人がいるなら、その人の心の裁きの座にいるのは、裁き主ではなく独裁者です。被告人席にワンダーランドの主がいるときは、毎回ろくに審議もせず、さっさと無罪放免にしてしまう裁判官は、控え目に言って公平で賢いとは言い難いでしょう。

それは十分な調査もせず、確たる根拠もないのに、いつも自分を断罪し、厳罰を下そうとするのと同じくらい奇妙なことだと思いませんか。
 
「人の心を傷つけてはいけない」という間違った考え