ドアを叩くということ

言葉を含めて、人間の表現行為とは、他人の心のドアをノックすることだ。
「内心の自由」ってなんなんだ?

 
私はこれまで心だけじゃなく、文字通り人の家のドアも結構叩いてきた。
一人暮らしをしていた最初のアパートで、深夜に長電話をしていたら隣の部屋で悲鳴が聞こえた。次の瞬間窓ガラスの割れる音、人と人が激しくぶつかり合う音がして、そのあと一気に静かになった。
私はドメスティックバイオレンスと縁が深い家庭で育ったので、びっくりして固まった。大きな音がすると心臓がぎゅっとなる。何この静寂。続報がないってどういうこと? まさか死んだか?
おっかなかった。でも同時に「固まってちゃいけない」とも思った。隣の部屋の女子大生は友だちだったのだ。
 
彼女は卒論を書きながら炬燵でうたた寝をしていた。鍵をかけ忘れていることに気づかずに。
ふと目を覚ますと下着をかぶった見知らぬ男が、部屋の入口に立っていた。彼女は寝ぼけていたため「怖いより気持ち悪いってその時は思って」大声を上げて男を突き飛ばした。男はドアにぶつかり、明かり取りのガラスが割れた。男が刃物を持っていたことに気がついたのは、男が逃げた後だった。
私は警察を呼ぶようすすめたけれど、彼女は混乱して「わたしがいけないんです」「明日の、朝に」と消え入りそうな声で繰り返していた。彼女がようやく警察に連絡する気になったのは、玄関に置いてあった部屋の鍵がなくなっていることに気がついた後だった。
 
オートロックのマンションに住んでいたときのこと。防犯面は安心だと思っていたら、ある夜、階上の部屋からドスン、ドスンと大きな音が聞こえてきたことがあった。歩いている音ではない。複数の男性の笑い声はその前から聞こえていた。飲んでいるのか。うるさいな、と思ったら、女性のくぐもった叫び声が切れ切れに聞こえた。ゾッとした。
 
迷った末、110番した。ちょうど付近を廻っていたのか、警官は比較的早く到着して、私の話を聞き、階上へ向かってドアをノックした。
若人が集まって飲み騒いでいた。女性は歓声を上げていたようだった。警官が階下の住人から苦情があったと伝えたらしく、その後数人の男性が部屋に来た。深夜2時。
「開けてください」
「私はもう寝巻きです、インターフォンで話してください」
「開けてください」
私は「もしもあなたの恋人が深夜に知らない男からドアを開けてと言われたら、開けるように言うか」と尋ねた。階上の住人は
「…あー」
と、ややトーンダウンして、インターフォン越しに話をした。ベロンベロンに酔っていた。
「前の部屋でえ、うるさいってしょっちゅう言われたんすよお。だからあ、マンションに越したんすけどぉ…音ってそんな、響くんすかねえ」
素朴な疑問をしょんぼり話している風だった。
「響くよ、足音は。ここ結構壁薄いから、音楽も隣に聞こえることあるし。いつ越してきたの?」
「あー…一昨日なんすけどお…。そうすか…スミマセン」
男たちは肩を落として帰っていった。
 
翌日、仕事から帰るとポストにルーズリーフ用紙が入っていた。子どものような大きな字で謝罪が書いてあった。いいやつじゃん。私は返事を書いて、ちょっとしたおまけと一緒に階上の住人のポストへ入れた。階上の住人にはそれ以後二度と悩まされなかった。
 
結婚してから、やはり深夜11時頃に階下の女性が金切り声を上げて玄関のドアを叩いて来たことがある。
「いい加減にしてください! こっちは眠れないんですよ!!」
びっくりした。私たちは布団に入って本を読んでいる最中だった。
「足音が! うるさくて眠れないんです!!」
「もうこっちは寝てました、何なんですか」
夫がムッとしてドア越しに答えた。
「だいたい、お宅の奥さん昼間寝てるでしょう!」
そのころ私は体重減少真っ盛りで、確かに昼夜を問わず虫の息で横になって暮らしていた。夜毎階下の奥さんの高らかなイビキを恨めしく聞きながら、どうしたら眠れるのだろうと悩んでもいた。眠れない?
「そんなことあなたと関係ないでしょう!」
夫が声を荒らげ始めた。この人は妻のことになると怒る。私はドアを開けて、階下の奥さんと対面した。
「どうぞ、お入りください」
奥さんはぐっと黙った。
「寒いですから、どうぞ中へ。中でお話をうかがいます」
「けっこうです!!」
騙されないぞ、というオーラを、映画『幻魔大戦』の戦闘シーンのように漂わせ、奥さんは断言した。そしてだんだんだんだんと鉄の階段を踏み鳴らして階下の部屋へ戻り、ドアをばたんと閉めた。
 
win-winの法則で有名なスティーブ・R・コヴィーの「7つの習慣」にこんなエピソードがある。
ある日コヴィーさんは電車に乗ってムッとしていた。
隣の席の子どもふたりがたいへん行儀悪く、互いに文句を言い合い、押し合って騒いでいるのに、父親らしき男性はまるで気づかない様子でぼんやり黙っているからだ。親。何をしているんだ親!
子沢山の父でもあるコヴィーさんは、ついにたまりかねて父親に話しかけた。子どもさんが騒いでいるようですが。父親は夢から覚めたようにはっとして答えた。
「そのようですね…実は先ほど病院で妻をなくしたばかりで…子どもたちも混乱しているようですが、私もどうすればいいのか」
今度はコヴィーさんがハッとする番だった。「何か私に出来ることはありますか」とコヴィーさんは言った。
 
相手の事情が分かると、物事に対する見方が180度変わることがある。
ノックの音に気づいて対話が始まることもある。壁越しの音を聞いて相手の様子がおかしいと気づくこともある。
ノックの音は必ずしも抗議の音じゃない。これからいちばんの親友になれる誰かが叩いていることだってある。
隣の部屋に誰かがいるというのは、悪いことばかりじゃない。
 
冬に山奥の一軒家で灯油を切らし、バッテリーの上がった車を前にしてみると、それがよくわかる。
 
  

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