読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ポルノとコルテオと男女同権

エッセイ的なもの 外に出る

「男女同権って言うんならね、生理休暇なんてなくさないといけない」
と祖父は言った。私はそれはちょっと違うんじゃないかと思った。同権というのは待遇を同一にするということではないからだ。
 
先日シルク・ドゥ・ソレイユの“コルテオ”を見た。サーカスに生きた男が自分の死の床の夢を見るという舞台だ。舞台の上には大きなベッドがあり、横たわる男のまわりに次々と弔問客が訪れる。若い男、美しい女、小人、恋人たち、盲人、大男。ベッドの上には翼をもった乙女がゆっくり上下している。主人公の男の元へ親友だった男が駆けつけ、止める男たちを蹴散らしてベッドの上の主人公と抱き合ったあと、舞台は展開しはじめる。
 
天井付近に下がっていた巨大なシャンデリアがいつの間にかベッドのすぐ横まで降りてきている。どこからか現れた女たちが裾の長い衣装をはらりと脱ぎ捨て、シャンデリアに掴まってぐるぐる回り始める。ほっそりした片手だけで、足の甲だけをひっかけて、膝をかけて逆さまにぶらさがって、女たちは次第に速さを増して回転し、シャンデリアは徐々に天井へ上っていく。
 
ベッドに座り、楽しげに女たちを眺めている男。死の床を表していたベッドは、肉体美を誇る柔らかな女たちを迎える場に変わっている。舞台の四隅に座る若い男たちもくつろいだ様子で女たちの華やかな回転をうっとり眺めている。そうか、これは男性が死の床に振り返る人生なんだ、と私は思った。
  
そう思った直後、舞台に新たなベッドが加わり、短いパジャマを着た少女たちと、やはり短いパジャマを着た少年たちが二つのベッドを占領する。ベッドは男女の別がなかった子ども時代の寝室へ移動している。女の子と男の子はベッドの上を跳ね回り、ベッドフレームに飛び乗り、宙返りをする。女の子は男の子に負けず劣らず高く飛び上がり、男の子は女の子に遠慮しない。体格も力も互角なトランポリン競争が繰り広げられる。
 
性が未分化であった時代の男の子にとっての女の子。男の夢は青年時代の女へと進んでいく。
 
チアガール姿のあやつり人形が天井から舞台に吊り降ろされている。両足を開脚して、体をぺったりと床に倒しているチアガール。主人公の男は少女と親しくなりたくて話しかけてゲームに誘う。でも彼女の動きはちぐはぐで、二人はかみ合わない。
 
ピエロの爪弾くギターに合わせて情熱的で悲しい恋の歌を歌う中年男。彼の頭上にキラキラと赤く輝く金粉が舞い散り、見上げると真紅のドレスに真紅の扇子を持った、真っ黒な長い髪の女が綱渡りをしている。細いつま先で固いロープを一足一足すすんでいく女。女が長い髪を振り上げる度に金粉が舞い散る。命がけの女は真剣な顔で、男には目もくれない。自分のつま先を見ながら狂おしげに歌う男も、女の危険な綱渡りに目を向けようとしない。
 
ベッドを共にした女たち。幼なじみの少女たち。憧れのチアガール。恋焦がれた危険な女。彼と人生を分けあったパートナーはいつ登場するんだろう、と私は思った。彼の女友達や、共に働いた女たちは?
 
ゴルフのコント。大男が棍棒のようなゴルフクラブで、舞台中央のグリーンの上のボールを叩こうとしている。グリーンの穴から頭を出しているのは白い帽子を被った女で、ゴルフボールにされた女は悲鳴を上げて逃げようとする。大男のキャディーをしている若い男がなんとか女を捕まえようとするが、クラブが振り下ろされる瞬間、女は絶妙なタイミングで頭を引っ込める。ドタバタが繰り広げられたのち、キャディーの帽子と女の帽子が入れ替わる。とたんにキャディーの男の頭にクラブを振り上げる大男。逃げ出す若い男。女はグリーンから頭を出し、勝ち誇って笑っている。
 
このボール役が女なのは象徴的だなと私は思った。でも、このキャスティングはわざとなんだろうか。
 
シーソー状に渡された板の端に乗った二人の男が、互いに相手を飛ばしあう。戦争だ。浅黒い肌のジプシー風の男が、金髪碧眼の貴族風の男を跳ね飛ばす。飛び上がった男は軽やかに回転し、ジプシー男を跳ね飛ばす。ジプシー男は思い切り高く飛び、勢いをつけて貴族を跳ね飛ばす。女はまったく手を出さない。周りで見守る群集の中で歌い、手を叩いているだけだ。
 
最終幕では、長い死の床の夢を見ている主人公の男が仲間に見送られながら旅立つ。天使に先導され、自転車に乗り、翼をつけて旅立つ男に手を振る人々。彼と対等に、女として人生を共に歩んだ女性はとうとう一人も現れなかった。
 
私は、暗い気持ちになった。一人の人の人生を語った舞台で、女性が男性と対等な人格を持つ人間として扱われていないように感じたからだ。これまでそんなことを意識したことはなかった。でも少し前に「男性社会」「ミソジニー」「女性蔑視」などについて深く考えることがあったので、そこに注意が向いていた。
 
もしもコルテオの舞台が、一人の女性の人生と死を描いたものだったら、女性にとっての戦争とはどんなものだろう。女性が狂おしく男性を恋する歌はどう描かれるだろう。そして彼女のベッドに集まる男性の姿はどんなものだっただろう。
 
男性の既得権益と呼ばれるものがある。ポルノもその一つだという人がいる。
男性が性的な快感を追い求めるのは“男性らしい”奨励される態度であり、女性が自分の快感を積極的に求めることはタブーとする風潮がある。このような非対称はよろしくないので、女性もポルノを楽しむべきだという考え方もある。私はこの点で、現状男性がポルノを楽しむ態度をお手本にしたいと思わない。そこには性の快楽を過剰に礼讃し、人の尊厳は二の次という考え方があるからだ。
 
私がコルテオの舞台に欠けていると感じたもう一つのものは、子どもの誕生と成長だった。それはベッドを共にする男女の間に訪れる人生のドラマの大きな部分であり、人の人生の始まりの部分でもある。これは私が性関係を考える上で、絶対に切り離して考えられない要素だ。人は必ずしも、子どもを世に送り出すためベッドを共にするわけではない。けれども性と生殖が密接に関わり合う重要な要素であることは間違いない。
 
生まれてくる子どもたちと、いま眠っている子どもたちのことを思う。
子どもたちがみな、彼らを見守る親たちと大人たちに恵まれて産まれますように。その子たちの尊厳が重んじられ、どの子も自分の性を尊く思い、人の性を尊重する人になりますように。誰もその子たちの性を奪うことがないように、その子たちが誰の性も踏みにじることがありませんように。男の子も女の子も、自分の性を誇りに思い、異性の魅力を快く思いますように。
 
コルテオを見てしばらく私はふさいでいたのだけれど、ある時ふと「男性の人生を描いた舞台は、女性の人生を描いた舞台と同様、受け入れるにふさわしいものだ」と思った。男性の人生を描いた舞台があり、女性の人生を描いた舞台がある。それを同じように描く必要はない。男女は同権なのだ。男性を重んじることは女性を軽んじることではない。その逆も同じことだ。
 
私が男性を攻撃しているとか、女性を特別扱いしているという人がときどきいる。そうかと思うと男性主体だと非難する人もいる。特殊な性癖を一般的な性癖と差別しているという人もいる。
 
私は女性向けのポルノにも、同性愛者向けのポルノにも、特殊な性癖向けのポルノにも、ありふれた性癖向けのポルノにも、性の快楽主義を礼讃する態度を望まない。特定の性別や、人種に、違う人達を踏みつける権利があると思わない。性の快楽はすばらしいものだけれど、それを至上のものにするのは悲劇のもとだと考えている。人生には多くの要素があり、それを性の快楽のために無碍にするのはあまりに惜しい。うまく言えないけれど。