感情を重んじる

「感情論だ」「感情だ」と、まるで感情抜きに話しをした方が立派でもあるかのように感情を蔑ろにするコメントが寄せられました。感情ですとも。互いの感情を尊重することがたいせつではないとでもいうのですか。相手がなぜそう思うのかを理解するのはコミュニケーションの基礎だと思いますよ。
 
これで思い出した言葉があります。チェーホフの“ともしび”という短編の中の一節です。ここで分別と訳されている言葉の言語が分からないのだけれど、ご存知の方はいらっしゃいますか。

われわれの思想は、ごく若い人たちにさえ、いわゆる分別をうえつけるんですよ。感情に対して分別が、圧倒的優位をしめているんです。なまの感情とかインスピレーションとかは、こまごまとした分析によってかき消されてしまいますからね。

なまの感情とインスピレーション。物事を理解するには机上の空論ではいかんというお話。
何歳だったらお留守番できるとか、このデータによれば大半はこうなるから問題ないとか、そういう理屈では現実を理解するとき取りこぼすものがたくさんあるのです。
 
「いいや違うね、理性や分別が暴力を自制する基礎になるんだ、そんなことも知らないの」
と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、その理性にはやはり何らかの感情が伴います。それは相手を思いやる気持ちだったり、自分が暴力をふるった結果を恐れる気持ちだったりしますが、理性と感情は切り離せるものではないく、相互に影響しあうものなのです。自分は理性に基づいて話しをしていると思い込み、自分の感情に気付かなければ自分の動機を理解することもできません。
 
同じくチェーホフの“六号室”という小説の中でも、精神病院に入れられた患者が医者に、暖かい部屋で安楽に机上の空論をこねくり回し、人の痛みを軽々しく扱うのがいかにやさしいことかを述べるくだりがあります。人に暴言を吐きながら相手の感情を考慮に入れず、自分は間違っていない、これこれの理屈とこれこれの権威からして非難される法はないと思い込んだりする無情な人になりたいとは、誰も思いません。頭でっかちになるとどうなるか。

ところで分別のあるところには冷淡さがあるし、冷淡な人間というのは正直のところ、純潔なんぞ知りやしませんからね。この美徳を知っているのは、心のあたたかい気の優しい、本当に人を愛することのできる人だけですよ。

人の痛みを新聞記事のように数行にまとめてわかった気になると、純潔(この小説の中での純潔は童貞・処女のことではなく、肉体関係も含めた個人の境界だと私は思った)の美徳なんかわからない、と技師は若い学生にいって、その場にいた男爵に自分の若い頃の恋愛とその結末を話し始めます。
 
これはなかなか考えされられる話なのですが、話しが終わって読者と男爵がううむ、と技師に感心していると、学生が「どこの国でもいつの時代も似たようなものだな」と人の普遍性にびっくりするほど“大人に文句をいう若者”的反応を示し「あなたは僕を説得しようとしている!」と怒り始めます。大人である技師は驚いていいます。

だれかを説得した? ねえ君、わたしがそんなことを考えていると思うかい? 冗談じゃないよ! 君を説得することなんぞ、できるものか! 一つの信念に達するには、君は自分自身の体験と苦しみによるほかないんだよ!

私も一つの信念に達するには自分自身の体験と苦しみによるほかないと思います。
そしてその体験から湧き上がる感情を、自分がいいたいようにではなく相手に伝わるように伝えることは、互いに理解しあう上でたいせつなものだと思います。また人の見解にまったく同意できないとしても、相手の感情をできる限り尊重していきたいと思っています。
 
ですから私は感情を抜きにして話しをしたくはありません。それは激昂して論理をねじ曲げ感情的に話すことと同じではありません。そして感情が高ぶっている人の話がすべて非論理的だと思うのは大間違いです。あなたが大怪我をして痛いと思うのは非常に現実的で理にかなったことではありませんか。
 
チェーホフ “ともしび”より、技師ニコライ・アナスターシエウィチ・アナンエフ

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