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左利きが右手障害じゃないなら自閉症は?

エッセイ的なもの 自閉症・アスペルガー症候群

“私の彼は左利き”というかわいい恋の歌をご存知でしょうか。ちがいます、“私の彼はパイロット”じゃありません。
 
名前どおりの歌なのですが、歌の中で彼女は彼の左利きを事細かに観察します。
別れ際に手を振るとき、手招きするとき。あ、やっぱり左手なんだ。
「わたしの わたしの彼は左利き」。
 
みなさん、恋人がどちらの手で手招きするかなんてとっさに答えられますか?
彼女は彼を見てどう思ったでしょう。
 
やっぱりぎっちょは治らないのね。今度教えて上げよう。
こんなときも右手が出ないなんて、かわいそう!
いいえ、彼女は続けてこう歌います。
 
「あなたを真似してみたいけど わたしの右利き治せない
 いじわる いじわるなの」
 
利き手まで彼と一緒になりたい、彼の気持ちになってみたいというまことにいじらしくお熱い歌です。
しかしここで注目していただきたいのは、彼女は彼の左利きを障害とは思っていないことです。
「当たり前だろ、おまえ左利きを敵に回す気か」とお若い方は思われるかもしれません。
しかしこの歌は時代背景を考えると、なかなか画期的な歌だったのです。
 
「俺は古い人間だからね、小学校じゃ放課後居残りで右手を使う練習させられたよ」
と、この歌を青春時代に聞いた左利きの方はおっしゃいました。
「だからあの歌がはやって急にうらやましがられてさ、変な感じだったよ」
 
かつて左利きは“ぎっちょ”と蔑称され、公に人として問題という扱いをされる時代がありました。
この方が受けた“ぎっちょを直そう”あるいは“治そう”という居残り授業は成功したでしょうか。
この方は今ではペンを持つとき、刃物を使うとき、箸を使うときなどで右手左手を使い分けていらっしゃるそうです。
右手が上手に使えるようになったからといって左利きが右利きに“治る”ことはありません。
 
「だから俺は君の話がよくわかったの。アスペルガー症候群自閉症だっけ。それは障害じゃないんだっていう話がね」
 
私はアスペルガー症候群、あるいは発達障害、あるいは自閉症当事者です。
これらは診断基準によって分類が変わりますが、基本的に同じものだと私は思っています。
そして私はこれらを、それ自体障害だと思っていません。今日はそのことをご説明したいと思います。
 
何から話しましょうか。
自閉症アスペルガー症候群について、みなさん何をご存知でしょうか。

アスペルガー症候群っつったら空気読めないんだろ、想像力ないんだろ」
自閉症ってふつうに話できないんじゃね?」
 
とかでしょうかね。
この辺りの実態を知るのはとても面白いのですが、ちょっと長くなりすぎるのでまたいつか別の機会にしますね。お楽しみに。
 
実はみなさんに最初に知っていただきたいのは、自閉症者の感覚、五感は多数派である定型発達者とは違うということです。
そして多くの自閉症者が自覚するかどうかは別として、常に対処を迫られる問題はこれなのです。
 
いうまでもなく個人差があるので、私のことを少しお話したいと思います。
私はみなさんにとって無視できるある種の音がとうてい無視できないほど煩わしく聞こえます。
現在BMI14.5の飢餓状態にあると書きましたが、原因のひとつは騒音です。
本当に、うるさいところにいると体力を消耗し、痩せるのです。
 
一方で外国語を正確に聞き取って再現することは難しくありません。
定型発達者と自分の聴覚の違いに気付くまでは「聞こえた通りに言えばいいだけなのに」と思っていました。
充電中のパソコンの低い振動音、消音中のテレビが出す高いピーーーンという音も聞こえます。
 
小さいころは呼んでも呼んでも返事をせず、ふいっといなくなってしまうので母はずいぶん困ったようです。
「聞こえているのにまるで耳が聞こえないかのように返事をしなかった、人を無視していた」
といまだに憤慨しています。
 
私が自閉症の自覚を持ったのは成人してからです。それはたいへんな転換点になりました。
シックス・センス”のラストであの医者が自分が何者かに気付く、あれぐらいの威力がありました。
幸い私にとってこれは福音でした。
 
それまで心理的な問題として薬やカウンセリングで私の問題に取り組んでいた医師は、新たな側面から私を見るようになりました。
ある音をうるさく感じるのは私の耳がふつうと違うからです。音にまつわる記憶を探っても仕方がないのです。
私の話し方や感じ方が人と違うのは生い立ちのせいばかりではなかったのです。
 
現在左利きを“右手障害者”として扱う方はあまりいないのではないでしょうか。
左利きだからと人を見下したり、矯正しようとする時代は過ぎ去ろうとしています。
でも平等に扱うとは左利きと右利きをまったく同じように扱うということではないはず。
 
左利きの方が自動改札で反対の手を使っているように、自閉症者も多くの面で定型発達者にあわせて暮らしています。
よくも悪くも定型発達者の感じ方を基準にすると“偏りがある”感覚で生きています。
 
これだけ左利きが認められるようになっても、左手で持つと手前に模様がくるマグカップを私は未だに見つけられません。需要はあると思うんだけれど。
左利きの人がひじがぶつかるからカウンターを嫌うとか、座るときは左端に座るとか、そういうこともあまり知られていないのではないでしょうか。
知られざる左利きの実態、その生活。
 
そのことを考えれば、どこが違うのかよくわからない自閉症を精神病や身体障害と捉える人が大勢いるのも無理はない。
私自身、自閉症についてほとんど知らなかったんだしね。
 
ただね。自閉症を恐ろしい病気だと思う風潮がこのまま続くと、自閉症当事者が自分は自閉症者だと気付く機会が減ってしまうんじゃないかなと、私は思います。
社会に適応できない恐ろしい病気、不治の障害を、自分が、あるいは自分がたいせつな誰かが持っているなんて信じたくない。
また不正確で偏った情報と現状を比較すると、とうていあてはまらないように思える。
 
さらには「もしかしたらアスペルガー症候群ではないか」という話をすることまでたいへんな禁句になる。
とうてい気軽に診断を受けることも、自分で症状を検討して判断することも許されない。
そういうのってね。
「定型発達者以外は社会の落伍者」っていう暗黙の了解からくることだと思うのね、はてこは。
 
「あの人アスペじゃない?」
っていうのは
「あの人異常なんじゃない?」
「あの人まともに話通じないんじゃない?」
「八部にした方がよくない?」
という意味ではない。そう使う人がいるのはよく存じ上げておりますが。
 
そして、おかしな風説がまかり通ることよりも、その話題を禁句にしてしまう方が問題だとはてこは思います。
だって今のところ自閉症の診断が出来るお医者さんはものすごく少ないのです。世界に名だたる東京にだってほとんどいない。
それなのに診断が下るまで努力して定型発達者として暮らすべき、っていうのはあまり現実的じゃない。
 
理性的な判断力のある人が自分は自閉症だと気付いたとき、お墨付きが必要でもあるかのように診断基準をわーわー言うのもおかしな話だと思います。
特に成人してから正確な診察を受けるのは現実問題難しい。自分が自閉症だと思う十分な理由があるなら、それにあわせて生活を工夫していくのはとてもいいことです。
(確かにアイデンティティとしてある種の病気に憧れる人はいるし、自閉症に憧れる人もいるらしいけれど。)
 
最初にお話したように、自閉症当事者にとって問題なのは定型発達者と話が合わないことよりも感覚の偏りだと私は思います。
あまり感じのよくない店員のいる店と、四六時中黒板を爪で引っ掛く音を聞かされる店を比較すると、後者は我慢の余地がないということです。
(おそらく定型発達者からみると自閉症当事者と接するときにいちばん困るのはコミュニケーションの問題なので、自閉症者の特徴としてそこに注目してしまうのでしょうね。)
 
自閉症だった場合、こうすると暮らしやすいよ。というマニュアルは図書館にたくさんあります。
そして多くの場合、自閉症当事者にとって暮らしやすい生活は定型発達者にとっても暮らしやすいユニバーサルデザインです。
そういうのをどんどん活用して、日々のストレスから解放された方がずっとずっといいよ。
 
人生で一度ぐらい自分は自閉症かな? って疑うくらいでいいんじゃないか。
それで色々調べて見識が広がるのはとても貴重なことだとはてこは思います。
 
農耕が障害者を生んだか? それは違うんじゃないかしら。
何かを達成するさいハンディがある人を障害者と呼ぶ。それは中立的な言葉でしょう?
少数派の弱者を特定して見下す傲慢な傾向は、なにも農耕の特権じゃないものね。