ネガティブ思想のポジティブな力と失恋の教訓

学校や職場で家庭で、ネットでダメだしされて嫌な気分で週末をお迎えのみなさん、こんにちは。
「ダメだしなんかでめげるなよ」という人もいますが、めげるってたいせつだよねとはてこは思います。
今回は叩かれたのが堪えたら腰をすえてがっつり凹むといいことあるよ、というお話です。
 
「そんなだからみんなに嫌われるのよ」とか
「そろそろ結婚相手探した方がいいよ? いや真面目にさあ」とか
「あんたたちは仲がいいけど、子どもがいないじゃないか」とか
 
ろくに知りもしないし知る気もない人から、生き方を否定するようなことを言われることってありますよね。ない? うそだ、あるよね。
上の三つはどれも私がかつて身内に言われた言葉ですが、こういうことを言われると実にいやあな気分になります。
本気かどうか、的を射てるかどうかに関わらず。
 
相手の意見を認めていれば(あるいは逆に間違っているという確信があれば)いつでも明るく前向きでいられるというわけではありません。
ふつう人は肯定されるとうれしいものです。逆に否定されることはあまりうれしくありません。
自己否定に熱心で、人からも否定されたいのは自虐的な人です。自虐は健やかさの表れではありません。
ですからやむをえない理由がある場合でも、人の意見を否定するときには慎重な配慮が必要です。
 
さて、自分の生き方や考え方を否定されたとき、さらには嫌われたり捨てられたりとピンチに立たされたときに「怒ったり落ち込んだりせず、物事のいい面をみよう」という考え方があります。いわゆるポジティブ思考。薔薇を見るなら棘を見ないで花を見よ。
 
この種の“ポジティブシンキング”は無駄に落ち込むことを避け、立ち直りを早くするかのように見えるのでなかなか人気があります。
否定されて心が折れる人、折れない人 かみんぐあうとっ
見方を変えればこれは人を知るいい機会だ。私もそう思います。でも誰を知るいい機会なのか。
 
緩和ケア専門医のガボール・マテは著書身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価「第18章ネガティブ思考の力」の中で、この種の“ポジティブ思考”はがん患者によく見られる、と書いています。
それが深刻な病気と密接な関わりがあるのはなぜでしょうか。
 
この章にはさまざまな苦難を“ポジティブ”にとらえた結果、心も折らず、めげずに長いことがんばって終には体が折れた、という人がたくさん出てきます。この人たちはどうしてそこまで前向きになろうとしたのでしょう。

マイケル・カー博士が指摘したように、無理やり楽観主義者になろうとするのは、不安に直面しないために不安を封じ込めるひとつの方法である。
その種のポジティブ思考は、傷ついた子どもが身につける対処パターンである。それに気づかず、傷ついたまま大人になった人は、子どものころの自己防衛手段のなごりを一生持ち続けることになる。

 
棘を見ないで花だけを見ていれば安心だ。
お母さんは帰ってこないけど、おかしがたくさん食べられるからよかった。
お父さんは帰ってこないけど、好きなテレビをいつまでも見ていられるからよかった。
 
君なんかにこの仕事が勤まるわけがないと言われたけど、率直に言ってくれてよかった。
お前がくるとしらけると言われたけど、自分を客観的に見る機会が出来てよかった。
 
彼は私を罵倒するけど、定職についてるし殴らないからいい人でよかった。
彼女は何度も浮気するけど、自分を理解してくれている人でよかった。
 
ね、なんだか雲行きが怪しくなってきた感じがしませんか。
何でもないと信じれば事態が収束するかのように振舞い、起きていることの一部しか見ない。これは現実の否認です。
どう考えてもこれはポジティブ思考とは言いがたい。
 
現実に対処するためにはネガティブ思考が必要だとマテ博士は言います。

治癒のためには、ネガティブに考える勇気を奮い起こさなければならない。私の言う「ネガティブ思考」は現実主義(リアリズム)を装った暗くて悲観的な考え方ではない。それはむしろ、何がうまくいっていないのか考えてみようという姿勢なのである。

薔薇の花だけを見る人は、薔薇の棘から身を守れません。
“物事のよしあしはすべて自分の受け止め方次第”という考え方は、不快な状況を自覚して手を打つ機会を奪うこともあります。
ほんとかどうかわかりませんが、心頭を滅却すれば火もまた涼しと言ったお坊さんは、そのまま焼死したというおっかない説もあります。
 
感情は自分と自分を取り巻く状況についていろいろなことを教えてくれます。
そしてほんとのポジティブ思考は自分の正直な感情を含めた現実と向き合うところから始まります。

本当のポジティブ思考は、あらゆる現実を認めることから始まる。そこにいたるには、たとえどんな真実が出てこようとそれを直視できるという、自分に対する信頼感が必要なのである。

 
私は酷い失恋をしたとき、よくも悪くも自分の意外な面を思い知りました。
自分がこんな女々しくて嫉妬深い女だったなんて。よくまあ自分はスマートに合理的に破局を切り抜けられるなんて思っていたものです。非常にいたたまれない思いをしました。
(みなさんもあまり軽々しく“自分は執着心薄い方だから”なんて人に言わないほうがいいですよ!)
 
でもね。「いつか思い出になるから」って、むりくり平気になろうとしてもいいことない。時間を早送りすることはできないのです。
「転んだ傷はそのうち治るんだから泣くな」と転んだばかりの子どもに怒るのはナンセンスじゃありませんか。
 
じっさい立ち直りの早い人というのは泣くときは泣き、怒るときは怒る人ではないでしょうか。
それで何か行動を起こすかどうかはまた別です。
ただ泣いたり怒ったり凹んだりすることはそんなに悪くないし、自分の気持ちをしっかり実感すれば(そのときは誤魔化すよりもずっとつらいこともあるけれど)やがて痛みは癒えていくから怖がらなくていいんじゃないかとはてこは思います。
 
ステファン・レクトシャッフェンは著書タイムシフティングの中で、離婚の痛み、子どもを亡くした痛みといった人生の危機にかかわる深刻な痛みについて扱っています。
彼は辛い気持ちは合理化したり忙しさで紛らわしたりせず、立ち止まる時間をとり、踏みとどまって感情の大波に飲まれることでやがては過ぎ去り、形を変えると書いています。
こんな気持ちまともにくらったら死ぬしかないんじゃないか、と思えることならお医者さんに相談しつつ受け止めるという方法もあります。
 
というわけで、私は人から否定されて心が折れてもいいじゃないか、せいぜいめげてしょんぼり凹むがいいよ、と思います。
自分に対して凹んでる子どもに説教する鬼監督みたいに接するのは、長い目で見れば問題を長引かせるだけだからやめたがいい。
心が折れても生きてさえいれば、いつかまた明るい気持ちになるときは来ます。
 
野原で雨に降られたと思って、寒さが通り過ぎるのを、体力を温存させつつ待とうじゃないですか。

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