人間だもの。 〜誉めることと認めることの違いについて。

 
「『男だから』というだけで敬意を要求するような人は好きになれない」というブックマークコメントをくださった方へ。
 ※リンクが表示されない方はこちら。殿をリスペクトするのは正しい - はてこはだいたい家にいる
好いてもらえないことは残念ですが、誤解があるようなので少し弁解させていただきたいと思います。
  
はてこは男だからというだけで敬意を払うに値すると思っていますが、それを人さまに図々しく要求したりする気は毛頭ございません。
はてこにははてこのたいせつな信条があり、人さまには人さまがたいせつになさっている信条がおありかと存じます。
 
また、はてこはご婦人に対しても女だからというだけで、やはり敬意を払うに値すると思っていることもお伝えしたいと思います。
さらには親は親だというだけで、年長者は年長者だというだけで敬意を払うに値すると思っておりますし、お坊ちゃま、お嬢ちゃま方におかれましては、幼い人としてよりいっそう注意深く敬意を払うに値すると思っております。
 
そして殿をリスペクトするのは正しいをお読みいただけばお分かりかと思いますが、人をリスペクトする、認めるということはその人を賞賛する、崇拝する、誇りに思うということとは別です。
 
例の犬の絵がかわいくて買ったコーチングの本に「なるほど」と思う一文がございましたので、紹介させていただきたいと思います。

“認める”と“誉める”は、違う
 
 ところで、“認める”ことは“誉める”こととは少し違います。ともすると人は、「よくやったね、頑張ったね」と誉めることを“認める行為”と考えがちですが、そうではありません。
 認めるということは文字通り、部下のしてきた行動をそのまま「こういうことをしたね」と言葉に出して伝えることです。
 
「計画通りに実行することができたね」
「今月の売り上げ目標を達成できたね」
「最後まで責任を持ってやり遂げたね」
 
 そこには、特別な誉め言葉をつける必要はありません。達成した事実を認めるだけで、部下自身がこれまでの自分の行為を価値あるものだと気付き、結果だけではなく、仕事のプロセスそのものをたいせつに思えるようになります。これが、本人のやる気に大いに刺激を与えるのです。
 このような行為を『アクノレッジメント』といいます。
 会話から始めるコーチング―最強のチームをつくるコミュニケーション力

これは、主に部下を持つ上司にむけて書かれた本ですが「人を認めるとは人を賞賛することではない」というのは真理だと私は思います。
 
私は男尊女卑、家長制度の文化で育った、いささか庇い切れない問題のあるマイダディーを
「でもお父様は男性で年長者で私の親だから立派な人物よ」
と評価しているのではありません。
ただ、この人も敬意を払われるに値する一人の人間だ、そして世界でただ一人の私の父だと認めているのです。
 
犬の本の例にならっていうならば、私は父について
「私を認知して子として育てたね」
「働いたお金をずいぶん私に使ったね」
「私とあなたは血縁ね」
という風に思い巡らし、その価値について時折思い返しているのです。
 ※余談ですがそう考えるようになったことを父はどうやら察しているようです!
 
人を認めるに際し、何か“あたりまえ”でないことを成し遂げ、際立った欠点がない場合に限る、と就職試験のように条件をつけるとたいへんなことになります。
なぜなら人を親しく知るようになればなるほど、特別な才能と呼べるようなものを持つ人はほとんどおらず、「これはまずいんじゃないか」と思える欠点を持たない人もそういないことが分かってくるからです。
 
立派な特質や業績を持ち、重大な欠点のない人のみ認める。そうでない者は断じて認めるわけにはいかん!
こんな風に考えていくと世界は人でなしだらけになります。
人でなしと信じるやつらを人として扱ってやるのはたいそう屈辱的です。そのようなストレスは健康状態によくない影響があります。
 
また人でなしが人間さまよりすばらしいことを成し遂げたり、社会に認められたりすると、あなたはきっと怒りを覚えることでしょう。正義に基づき人でなしどもの欠点、弱点は公に暴かれ、糾弾されるべきだと思うかもしれません。
しかしこのような態度はたいていの場合、誰にも歓迎されません。あなたは無礼な人として知られることでしょう。
ですからこのような信条を死守することはまさに社会的、身体的生命を犠牲にする覚悟が必要です。
  
ある社会では特定の人種的、また社会的背景を持つ人は人ではないと考えることがまっとうとされています。
その結果がどんなものであるかを考えるなら、誰を人として認めるかという自分の基準を慎重に設定せざるを得ないのではないでしょうか。
 
人の価値をその人が成し遂げたことで測ろうとすることを業績依存といいますが、これは認知療法の権威であるデビッド・D・バーンズが抑うつの原因となる考え方として上げているものの一つです。
 いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法 第13章より
 
仮に自分自身が人として認められる条件に当てはまらなくなったとき、公平に考えるなら自分を人でなしと認定しないわけにはいきません。
人でなしとして生きていく。妖怪人間ベム、ベラ、ベロのあの悲しい旅を思い出してください。そんな自己否定の人生を明るく生産的なものにすることなんて出来るでしょうか。
 
「何も人として認めないとは言ってない、ただ夫として(あるいは妻、母、父、息子、上司として)認めることは出来ないと言っているんだ」
と思われた方。
その場合もやはり夫として(あるいは娘、姑、部下、隣人、弟として)の基準の設定は慎重になさった方がよいとはてこは思います。
誰でも自分が量っているその量りで、自分もまた量られることになるのですから。
 
ですから私は男性を、女性を、年長者を、子どもを、ニートを、人として尊重したいと思っています。
同じように自分自身を、やはり人として尊重し、認めるに値するものと考えています。
それは自惚れでも何でもなく、まったく健全でまっとうな真理だと信じています。
 
そして自分の人としての価値を十分認識しないことには、それを侵害する人を拒絶することは難しいだろうと思います。
大事に思わないものを大事にできるわけがないですものね。
 
他人を人として尊重し、また自分自身を人として尊重してこそ、どんな社会的評価を得ている相手に対しても、対等な人間として敬意をこめて自己主張をすることができる。
破れかかったよれよれの一万円札にも手が切れそうなぱりぱりの一万円札と同じ価値がある。
 
私はそんな風に考えています。
 
パクリとリスペクト、また親孝行と親を敬うことの違い

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