虫のいい空想

飛行機の中でチョコレートとコーヒーのサービスがあったせいか、ふと気づいたら胸がときめく気持ちになっていた。
なんだかこのあといいことが待っているような気分。
せっかくなのでこの気分にぴったりの、虫のいいことを考えてみよう。

空港にはわたしを迎えに来ている人がいる。
その人はわたしが好きで、わたしに早く会いたくて、待ちきれなくて空港へ来た。

わたしを家まで安全に送り届けたくて、道みち顔を見ながら話したくて、少しでも長く同じ時間を過ごしたくてやって来た。

そしてわたしもその人に会いたい。その人に会えるから飛行機の到着が待ち遠しい。着いたらすぐに声が聞きたいのでスマホ機内モードをもどかしく解除する。

送ってもらうのがうれしくて、楽しくて、いつまでも一緒にいたい。はやくはやく会いたい。その人がいるところに着くのが待ち切れない。

そこまで考えて、これは恋愛のはじまりではなく、ここ二十年ばかりの日常だったことに気がついた。ずっとずっと、出かけるたびにこうして再会を待ちわびて、顔を見るたび互いに喜んだ。


「初めてもちおさんに会ったのはもちおさんが高田馬場オフにはてこさんを迎えに来たときだった。やさしい人だと思っていたのに『断固連れて帰ります』みたいな厳しい雰囲気で、ちょっと怖かった」
とkunicaさんから懐かしそうにいわれた。
「まだいるみたいな気がしちゃう」

いつも迎えに来てくれた。虫のいい日々だった。
機内でしばらく泣いてしまった。手元にティッシュもハンカチもなくて困った。

「あなたに会いたくて会いたくて 眠れない夜夢で逢えたら」という景気のいいあの歌が、頭の中で流れ続けていた。

CLASSYが怖い

待合室で雑誌「CLASSY」を手に取ったらいわゆる着回し一ヵ月コーデというやつがあった。かつて蛯原友里が一世を風靡したころCancam*1で見た。単に服のコーディネイトを日数分並べたものではなく、物語仕立てになっている。

 

ヒロインは会社員。*2気になる同僚(イケメン)がいるが、相手には彼女がいる。「でも奪っちゃえ」とあの手この手で残業や休日出勤をフル活用して一週間もしないうちに仕事帰りに相手の家でねんごろになる。「朝帰りからの出社は最高の気分。彼が仕事中こっちをみないのがかわいい」「仕事が長引いたふりして二人で早上がり。オフィス恋愛の醍醐味」と釣り堀にしけこんだりやりたい放題である。

 

えらく早いし微妙な状況だけれど、ともかくハッピーエンドになったのかと思いきや職場には後輩(もちろんイケメン)が「あんな普通の人がいいんすか」と横やりをいれてくる。なるほど、三角関係で間を持たせるのか。

 

と、思ったら翌日友人(たぶん女友達)に誘われてライブへいき、ライブ明けにバンドマン(当然イケメン)に誘われる。「もちろん遊びだってわかってるけど、思い出作り」と割り切った関係に。

 

さらにバンドマンといちゃついているところを後輩に見られ、「彼氏(彼女持ち同僚)にバラされたくなかったらつきあってもらえますか」とゆすられて流されデート。早くも彼女持ち同僚がめんどくさくなり「あの日(ライブに行った日)からLINEは既読スルー」「会話が不要な映画デートで適当にフォローしておいたら機嫌なおった」と寒々とした見出しが続く。

 

最期は同僚とデートの日に後輩が来るように仕向け、彼女持ち男から破局宣言を引き出してほくそ笑むところで終わった。

 

なんだこれは、とわたしは思った。こういう雑誌の物語はシチュエーションは豪華でモデルの容姿は美化されていても、心理描写は親しみを覚える程度に身近なもので、好感が持てる女性がでてくるはずなのに、これじゃまるっきり頭空っぽで尻が軽いだけの腹黒女の一週間だ。

 

職場で一目置かれている描写がちらほらあるので、馬鹿女を書きたかったわけではなさそう。それともCLASSYが思う憧れのキャリアウーマンはまさか女島耕作なのか。CLASSYのキャッチコピーに「人生のいちばんいい時期である20代後半から30代前半を十全に謳歌する」とあるけれど、こんな人物に憧れる女性を想定しているとは思わなかった。

 

「彼ママに気に入られるいい子コーデ」とか「本命に選ばれる」とか結婚を視野に入れた話題が随所に見られるが「こういう雑誌読んでると、結婚できなさそう」と思わずにいられなかった。いくら見た目をよくして手練手管を磨いても、島耕作流の交際でパートナーシップが育つとは思えない。

 

「彼のイヤイヤ期」という特集もあった。正式な交際にこぎつけた後冷たくなる男の心理を覆面座談会で語るというもので、要するに彼女面するようになったら好意が失せるから冷遇するという話だった。「もう数か月こちらからは連絡をしていない」「好意が続くように努力してくれなきゃイヤ」とか三人男がくだを巻いている。こんな関係続ける価値があるのか。

 

これにアドバイスをしているのは婚活の仲人や大学教授らであったが解決策には料理の腕を磨くとか、気にせず趣味を楽しむとか、相手の態度に正面から意見するとか、これまた「あらためて聞く価値あるのか」と思うようなことが書いてあった。

 

そして読者投稿やお笑い四コマには男に落胆した話が目白押しである。男を手玉に取る話と、維持管理に苦労して愚痴をこぼす話で共感を誘っている。

 

これを「人生のいちばんいい時期である20代後半から30代前半を十全に謳歌する」女性に向けて書いているのか。これまでまともに手に取ったことがなかったけれど、他もこんなだとしたら、女性誌が想定する女性像は憧れる要素がなさすぎる。

 

この話を知人男性にしたら「その種の頭の悪さはむしろ男性雑誌の方がひどい気がします」といわれた。確かにそうかもしれない。「いい年した大人の女性向けの雑誌なのに」と思ったけど、プレイボーイ誌だって成人向けだし、文春でも新潮でもいい年した大人が手に取る前提で低俗な男女関係を煽る特集が山盛りだ。

 

でも、なんかこう、本気で切実に結婚を望む世代の女性向けまでこうなのか。ショック。交際とは縁がない非モテ自認の強い層向けの人物描写がご都合主義で非現実的なのはわかるけど、いわゆる恋愛には不自由しないリア充向けの雑誌ですらこうなのか。「男なんてちょろいw」とほくそ笑んで「男なんて!」と落胆して、相手を人間として見る楽しさ、面白さを語る場面はない。やはりモテは地獄である。

 

日本の結婚率が低い理由は「男女七歳にして席を同じゅうせず」を実質継続し続けて、互いを男女として受け入れる機会も、人間として共感する機会もないがしろにしているからだと思う。つまりデフォルトで仲が悪い。特別な理由がない限り男女が仲良くするのはおかしいという考えがベースにある。

 

モテ地獄上層の異性に対する恨みつらみは非モテを自認する層とは違うが、その凄まじさでは引けを取らない。

 

「男なんかに」「女なんかに」本当はここまでしてやることはないけど、攻略するまではいい気にさせておこう。生意気に餌だけ食って逃げやがった。ゆるせない。のこのこ食いついてきたくせにいい気になりやがって。釣ってやっただけ、かかってやっただけありがたく思え。おまえなんかよりもっといい男が、女が、いくらでもいる。

 

こういうのは、相手が悪いんじゃなくて、関わり方が悪い。だから相手を変えても関わり方が同じだったら結果も同じになる。

 

異性として意識したが最後、相手と自分の性的魅力と社会的地位だけを価値の尺度にする必要はない。また友達関係で性的魅力を封印する必要もない。男女を対戦相手とみなして虜にした方が勝ちみたいな考え方では友達になれない。友達になれない相手と家族になるのは大変だ。

 

仲人業界がいちから手取り足取り交際の方法を説明しなければならないのは、男女関係に疎い人たちばかりではないんだろうな。

*1:「お、IMEに入ってるやん」と思ったら誤表記だった

*2:漫画「NANA」のパロディで終電を追い掛けてヒールが脱げたあのシーンからなぜかスニーカー派になるというスニーカー特集

「どういうつもりで誘ってくるのか」より大切なこと

定型発達のみなさんがどうやっているのかわかりませんが、わたしは気があるのかないのかわからない微妙な言動をとる相手には「この言葉は(誘いは)どういうつもりですか」と正面から聞いてきた。

 

そうすると大半はしどろもどろになりながらも(まれに憤慨する人もいた)友人として遊びたいと思っているだけだという趣旨のことをいってきたので、友人として遊んだ。逆にどういうつもりで応じたのかと聞く人はいなかったので、このやり方は一般的ではないのだと思う。男女であってもとくに前置きがなければ大前提としては友人として遊んでいるというのが公式見解なのだ。

  

中には聞けない相手もいた。聞きたいと思った時点で心底惚れ込んでしまって、答えを聞くのが怖かった人だ。そこまでいくとひとり相撲の沼におぼれて行くも戻るも身動きとれないようになり、相手が沼から引き揚げてくれないかぎりどうしようもないという状態になった。

 

ひとり相撲の沼にはまると相手と両想いになることよりも「こちらの片思いだったときに恥をかきたくない、相手にキモいと思われたくない」ということが至上命題になる。

 

だからことさら「これはあくまで友情です」というポーズをとってみたり、とってつけたようなリラックスしてます感や冷静さを演出してみたりと、相手に警戒されないように必死になる。要するに好意を隠す。

 

一方で隠しに隠した熱い好意をささやかな兆しから見抜いてほしい、気づいてほしい、そして気持ちに応えてほしいと無茶な期待もする。同時にどうせ自分なんかの好意はうれしくないだろうし、気持ちに応えてもらえるなんて奇跡は起きないのだと勝手に絶望する。

 

期待する自分と絶望する自分のはてしないひとり相撲、それが重度の片思いだ。

 

ここまで来ると相手が自分に好意があるかどうかより、期待する自分と絶望する自分のせめぎあいに決着をつけることに夢中になってしまうので、相手の行動をありのままにみることも、相手に気持ちを伝えることも、何より相手を喜ばせたい、楽しませたい、しあわせにしたいという思いを噛みしめたり実行したりする余裕がなくなる。

 

すぐそばにいる惚れた相手に手も足も出ない。ヤドカリか亀のように殻の中で悶々としながらひたすら奇跡が起きるのを待ち、表面的には平静を装うことに全力を尽くして疲れ果てる。これはアカン。

 

こういう幾多のひとり相撲本場所による数々の負傷を経て、わたしは土俵に上がる前に決着をつけることにした。つまり微妙な関係の相手にはさっさと気持ちを伝える、または相手の気持ちを聞くことにしたのだ。

 

しかし微妙な関係の相手に「どういうつもりで誘ってるの?」と真顔で正面から聞かれて、率直に答えられるのは待ってましたと口説く準備ができている人と、我々少数派である非定型発達者くらいだと思う。いや、非定型発達者だってひとり相撲の沼に深くはまっていたら素直な気持ちを話せるとは限らない。「友人として」と答えた人たちの言動をふりかえるに「あそこでフラグを折ったな」と思う例もある。

 

もちおは知り合った当初あからさまな好意を率直に示してきたけれど、はっきり交際を申し込んではいなかったので「つきあいたいの?」と聞いたら「つきあいたい!!」といってきたのでそこからどうするか話し合うことになった。

 

当時わたしはもちおに惚れ込んではいなかったので「フラれたらどうしよう、キモイといと思われたくない」とひとり相撲に引き込まれることもなかった。

 

で、いまになって思うことは、もちおはどうして沼にはまって亀と化さずに済んだのだろうということだ。なぜあの人はまっしぐらに、夢も仕事も故郷も後にして、迷わずやってこれたのだろう。わたしがいる人生を選ばない理由はいくらでも見つけられたのに。

 

もちおはフラれないこと、キモイと思われないことより、惚れた相手と関わる機会を棒に振ることの方が損失だと思っていた。自分かわいさでひとり相撲にはまってしまうわたしとそこが違った。「自分なんかが相手の人生に関わったら迷惑になるかも」なんて思わずに、どう関わったら相手の人生に貢献できるかを考えることに熱心だった。

 

そしてもちおがしてくれたことの中でわたしの人生に最も貢献したことは、わたしが応じようが応じまいが、出し惜しみせず、源泉かけ流しで好きすき大好き愛してるかわいいかわいいいつも一緒にいたい何でもしてあげたいそれができてしあわせだ!!と言葉と行いで伝え続けてくれたことだ。

 

これがわたしに伝播して、「何いってんの、どうかしてるよ、冷静になりなよ」といっていたわたしも徐々にもちお好きすき大好き愛してるかっこいい頭いい最高いつもいつも一緒にいたい(以下略)になり、歩くときは手をつなぎ、座れば肩に頬を寄せるという過去誰にもやらなかったことを臆面もなくやるようになった。

 

というわけで、微妙な相手に真意を尋ねるより大切なことは、まずこちらの好意隠さず伝えていくことだといまは思う。相手の気持ちを知ったところで関係が上手くいく保証はない。自分が相手とどんな関係を築きたいか、それをよくよく自分で自覚して、相手にとってそれがうれしく楽しく面白くしあわせなものであるように創意工夫をした方が、プレゼンはうまくいく。

 

もちろんうまくいかないこともある。でも、自分に対する相手の好意という日々変化するものを特定しようとするよりプレゼンの内容とプレゼンの方法の両方に力を入れることの方がずっといい。

 

どちらにしても命に限りがある以上、生身の身体で永遠に続く関係は持てない。思いが通じても人生のなかで惚れた相手と言葉をメールや電話で交わしたり、目を見て笑いあったり、横顔や後ろ姿を見つめたりできる時間はわずかしかない。

 

進展ねえ。進展もいいけど、そこに至るまでの道に咲いているお花もあら素敵ねと眺められるようになるといいのにね。そうして一緒に楽しめる相手とならもっと遠くまで歩いてみたくなるものでしょ。

 

以上本日のはてなの話題からでした。

https://anond.hatelabo.jp/20190423004817

彼氏活動

母とわたしのあいだには幼い頃からうっすらと、思春期以降は激しく、成人してからは執拗な毒親アダルトチルドレンの戦いがあった。恋人が出来るたびに何かと横やりを入れ、結婚してからは事あるごとに夫婦仲を邪魔してきた母。
そんな母と最近不思議な蜜月にいる。

 

母は食道楽が好きだがしまり屋で、特に年金暮らしになってからは贅沢なものを自腹で食べたがらない。そんな母に好物を食べさせるため店を予約し、車を出す。もちろん財布も出す。気に入ったものがあればお土産も買う。
ふぐのコース、蕎麦、天ぷら、寿司、馬刺しなど、ザ・ご馳走というものをときには高速飛ばして食べに行く。
母は返礼として娘を折に触れては家に招き、手料理をふるまってくれる。
そして本と映画と仕事の話、趣味の話、政治の話、家族の思い出話をする。

 

母からされたことを忘れたわけではない。
でも目の前にいる白髪の小さな女性にはもうそれほどわたしを傷つける力があるようには思えない。

 

夫と別れて一人暮らしを続けている母にとって、わたしが一人に戻ったことは何か緊張を緩和する効果があったようだ。

夫に養われていたときは、わたしの稼ぎで母に何を送っても母はわたしではなく夫に礼をいった。だから母に贈り物をするのは母に自分を平手打ちをさせる機会を与えるようなものだった。

それに当時はわたしも手元にいくらあるかに関係なく、まずは自分たち夫婦の家計を第一に収支をやり繰りしなければと思っていた。余分があればやがて訪れる自分たち家族の老後に備えなければと思った。母の預貯金がわたしたち夫婦のそれとは比べ物にならないほど多いことも知っていたからなおさらだ。

 

夫を失うと同時に、訪れるはずだった老夫婦としての未来を失い、代わりにわたし名義の口座に少しまとまった額のお金が振り込まれた。母にはひとりに戻った娘の様子を見に行く口実が出来たし、わたしには誰に気兼ねすることなく財布の紐をゆるめる自由ができた。

 

近況報告なのか、遠まわしの催促なのか、いきたい店、食べたいものを語る母はかわいい。店の予約に浮かれたスタンプを返してくる母。店のしつらいに興味津々で、料理が美味ければ目を輝かせてレシピを想像し、不味ければ礼も忘れて料理のまずさをあげつらう母。


ガソリン代、高速代、飲食代、お土産代など二人でちょっとした額になるけど、喜んでいるからまあいいやと思う。人間いつ死んでしまうかわからないし、いつまで美味しいと思いながら食事ができるのかもわからないのだ。

 

「もしかして、これはデートなのでは」とふと思う。
わたしは母の彼氏になっているんじゃなかろうか。


わたしの接し方はいわゆる中年期の理想の息子ってやつなんじゃないか。もしかしたら母がわたしの結婚に抱いていた苦々しい思いは息子をとられた母親のそれに似たものがあったのではないか。だとしたら、一度結婚してから再婚の見込みが薄い状態で一人に戻ったいまのわたしは母にとって理想的なのかもしれない。

 

独身のときに将来を潰されるのはたまらないけれど、いちどは家庭を持ったし、仕事もまずまず安定してるし、もう生き急ぐ理由もない。
要するにお付き合いに差し障りがない。
たまに生活ぶりについて小言を言われることもあるけど、母もこの年齢の子には親としての権威を笠に着るジャンルも少ない。

 

子供の頃、いつか母にしてやりたいと思ったことがたくさんあった。お互いこれといった持病もなく、足腰も目も耳もしゃんとしているいまならそれを実現できる。母もひとりになったわたしになら気兼ねせずしてほしいことをねだることができる。


ぽっかり空いた人生の空白期間に訪れた短い行楽日和を大事にしようと思う。
人をだいじにする方法は、もちおをはじめ、いろんな人が身をもって教えてくれたからね。

さびしいワンコ

寡婦になってつらいことが三種類ある。

 

もちおがいなくてつらい。

もちおと見たかった未来がなくなってつらい。

すきなひとが傍にいなくてつらい。

 

もちおがいないことはもちおが生き返れない限り埋め合わせのしようがない。

もちおと見たかった未来も同様。

でも、もちおがいない現在とそこから続く未来がまずまず魅力的ということはありえる。

 

「時間がかかっても、いつかはてこさんが自分の人生を取り戻せたらいいなと思う」

ともちおが去ったばかりのころ友人に言われて、しばらく意味がわからなかった。

自分の人生???わたしの人生って?

もちおがいなくなったあとに、まだ自分の人生が残っていることにそのときはじめて気づいた。

もちおがいる人生はわたしの人生のお気に入りのバージョンのひとつで

ほかにもバージョン違いの人生があるという視点をすっかりなくしていた。

 

それからだいぶ経ってから、もちおがいないことと、すきなひとが傍にいないことは同じではないことに気づいた。

 

それがわかるまでは、もちおがいなくて寂しいのに、どうしてもちおじゃない人に会いたくなるのか自分の気持ちが理解できなかった。

もちおじゃない人に会っても意味がないはずなのに、どうして人に会うとうれしかったり、楽しかったりするのか。

 

わたしは自分が飼い主がいなくなった家に残る犬のように思えた。

家のどこにも家族だった飼い主がいない。

もうずっとずっと帰ってこない。

そこに別の人が訪ねてきたら、犬は喜ぶだろうか。

それとも警戒して追い立てたり、お愛想程度に尻尾をパタンと振って鼻先を前足の間にうずめるだろうか。

 

わたしはパートナーだった飼い主以外には懐かず飢えて死ぬような犬に憧れたけれど、そうはならなかったので自分に失望したし、もちおへの愛情はなんだったのかとも思った。

飼い主が死んでから水も飲まなくなって死んでしまう犬。

パートナーをなくしてまもなく後を追うように世を去る人。

それこそ真の愛って感じがする。

 

 

でもまあそうはならなくて、わたしは金にものを言わせて、ジムとか、ドミトリーとか、語学留学とか、オフ会とか、ひとけのあるところを探してはそこに潜り込み続けた。

死にかけて生き残るぞと思ってがんばったのに、息を吹き返したら、笑ったり喜んだりもちおのいない暮らしに楽しみを見つけたり、もちおじゃないひとと楽しく過ごしている自分にがっかりした。

 

わたしは飼い主がいなくなった家で暮らしながら通りかかる人に尻尾を振ってついていく犬だった。

ひとがすきだ。セブに行って自分がどれだけ人懐こいのか、よくわかった。

そうやって人を追いかけてあちこち出歩いているとどんどん未来が開けてくる。

 もちおといかなかったところ、もちおがいたあいだやらなかったことをやり続けて、わたしはどんどん変わる。

もちおと繰り返していた日常を繰り返さなくなると脳ももちおエリアをどんどん書き換えていく。

思い出しては泣き、思い出せないことに泣き、泣かなくなったことに傷つきながら、それでも今日を生きている。

 

人がすきなたくましい犬。

 

「おまえは冷たいね、飼い主が死んでしまったのによその人に尻尾なんか振って」

と、この犬をいじめないでいてやりたい。

だってたぶんさ、本当に忘れたわけじゃないんだよ。もし飼い主があらわれたらめちゃめちゃ喜ぶじゃん。

いつか飼い主に会えるならそれまで元気でいた方がいいし、二度と会えないならやっぱりかわいそうだから何か楽しいことがあった方がいいもんね。