父の言葉

下書きにこんなテキストがあったので加筆修正して完成させました。

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わたしは夫と出会うまえに、いま思えば分不相応な相手と結婚の約束を交わしていた。

 

彼とは当時打ち込んでいたある活動で出会った。わたしは世間知らずで、理想に燃えており、彼の人となりや人物評価はすべてその組織内での活動に基づいて判断した。つまり学歴や家柄などに興味がなかった。

 

彼のプロフィールは華々しかった。彼は長身のわたしよりさらに10センチ背が高く、ハンサムで、大学名を聞いた人が「え!」と顔をほころばせるような学歴を持っていた。出会ったころは院卒の博士で、国立の研究機関に招かれて働いていた。実家は父親の稼ぎのほかに地元の大きな不動産収入があり、兄は官僚だった。まさに「末は博士か大臣か」を兄弟で実現したのである。

 

これらは見知った情報を繋ぎ合わせてわかったことで、当時はそれらが世間的に何を意味するかわかっていなかった。わたしにとって彼は家族になる予定の大切な人だったけれど、属性としては文字通り目上の頼れるひとりの男性に過ぎなかった。

 

しかし世間知らずの娘と違って、両親はさすがに理解していたと思う。口には出さなかったけれど、親に盾突いて家を飛び出し、山に籠って夢を追いかけている若いだけの娘にいったいなぜそんな話が来たのかと驚いたに違いない。

 

ともかく「結婚の話があるので会ってほしい」と伝えると、父は仕事のあと都内のホテルで会う時間を作ってくれた。

 

父は会議のあとの食事会を終えて、自ら指定した都内の名の知れたホテルのレストランへやってきた。すでに酔っていたにも拘わらず、見たことのない緊張ぶりだった。

 

父は地方では名の知れた家の長男で、子供のころから医者になることを期待されていた。ところが親を出し抜いて芸大から映画の道に進み、母と出会って大学中退で家庭を持ち、親の脛を容赦なく齧りつつ、叩き上げで会社を大きくした。要するに履歴書に書いて感心されるような背景は何もなかった。

 

いま思えば彼とわたしは住む世界がまったく違う人だった。当時わたしはそれがどれほど社会的に影響を及ぼすものなのかわかっていなかったけれど、財力はともかく経歴の点で父が自分自身と娘のわたしを彼に自慢できる要素が思いつかない。

 

愛はすべてを超えると信じて疑わない恋する若い娘と違って、あのとき父が緊張していた理由がいまになって想像できる。あのとき父は降って沸いた縁談をどう思っていたのだろう。

  

それまでわたしは父が初対面の他人と会うときの様子をほとんど見たことがなかったので、父の緊張した面持ちに驚いた。しかしさらに驚いたのは、そのあとのスマートで洗練された、それでいて友好的で親しみのこもった父の話術だった。どうした。いつもと違うじゃないか。

 

父は彼に話をふり、自然にうちとけるような相槌を打ちながら話を引き出した。父はその気になればびっくりするほど人を引き付ける魅力があることを、そのときはじめて知った。

 

「…というわけで、そこから考えるとうちはどうもこの地方の一族の出らしいんだよね」父は家族の話題から手短に先祖の系譜を語った。初耳だ。そして「要するに海賊の子孫なわけ。だからガラが悪い」と落ちをつけ、ニコッと笑った。父はハンサムで、同時に子供のような愛くるしさを持っていた。父の笑顔は人を魅了する。

 

彼が当時自分の社会的立場をどの程度自覚していたかわからないが、彼は彼で人並みに結婚を前提に恋人の親に会うことで緊張していた。恋人から「父親はヤクザみたいなものだ」と聞いていたのでなおさらだ。ところがやってきたのは素朴で粗削りな魅力を持った話術巧みな経営者である。彼はすっかり父の術中に落ちた。

 

「俺は娘は絵を書くとかモノを作るとか、そっちへ進むと思ってた。昔からそういうのが好きだったからね。でも、こいつが『叶えたい別の夢ができた』って言い出して、そういう仕事を辞めて、工場で下請けの下請けみたいなことをやり始めたとき」

 

ああ、あのとき父は失望しただろう、とわたしは思った。娘は何らかの形でクリエイターの道に進むと信じ、また願っていた母は如実に失望していた。工場のライン作業に就くくらいだったら定職につかず家で絵でも描いていた方が母は安心したかもしれない。わたしがその道から離れて何年も経っており、自分の選択に後悔はなかった。それでも父から改めてその話が出た瞬間、親の失望を思うと胸が痛んだ。

 

しかし間違いなく語り部の血を引く父はこの話題を意外な方向へ持っていった。

 

「俺は何にも言わなかったけど、『俺はこいつに負けたかもしれない』って思ったよ」

 

父は世間に背を向けて学校を辞め、夢中だった仕事を辞め、信じた道で生きることを選んだ娘をハイスペ男子の前で静かに、しかし有無を言わせぬ説得力で賛辞するためにこの話題を持ち出したのだった。これにはわたしがコロッと参ってしまった。

 

そんな風に思ってくれていたなんて。感動して泣きそうだ。わたしはなんて愛された娘なんだろう。これまでいろいろあったけれど、いまこうして愛する人と家庭を持つご縁に恵まれ、これまでの生き方を父に祝福され、わたしは世界一しあわせだ。信念を貫いて生きてきてよかった。神様、ありがとうございます。

 

 

その後半年もしないうちに彼とは紆余曲折あって別れることになった。感動は未来を保証しないのである。

 

 

別れてしばらくして、絶望のどん底でかつかつ生きていたある日、父から電話があった。むろん酔っている。

「男なんて星の数よ。おまえに惚れた弱みは似合わんぞ」

惚れた弱みはわたしの人生の中心軸といってもいいものである。しかしやはり惚れて弱っているのはよくない。

 

婚約破棄については耳蓋ぎたくなるような言葉を母からさんざん浴びせられた。そもそも不釣り合いな縁組を内心よく思っていなかった第三者からの言葉もあった。しかし父はひとこともわたしを責めなかったし、揶揄することもなかった。それでずいぶん救われた。心の中に星空が広がっていくようだった。

 

その後わたしは夫と出会い、父はなぜか夫に対しては初対面から邪見にしまくりで、籍を入れてからも娘婿と認めるまでずいぶん時間がかかったし、隙あらば「俺は父親だけど、こいつは妻にするには向かない。機会があったら別れた方がいい」と真顔で夫に迫ったりしていた。「あんたたちは仲がいいが、子供がいない」と勝ち誇ったように言ってきたこともあった。おまえの子育てに遠因があるだろうに、なに威張ってんだよ。

 

父はけして善人ではない。娘に対して正直さも誠実さもさほど持ち合わせていない。父は酒飲みで、語り部で、名言屋さんで、生まれついてのシャーマンなのだ。

 

父はよくも悪くも自分が人に何を語っているのか自覚がない。父は常日頃から神がかっており、息をするように降ってくる言葉を考えなしに口にする。

 

ということはつまり、父がどんなにでたらめで残酷な一面を持っていようが、父の言葉の効果は消えないのである。何かが父にそういわせているのであり、その何かがわたしに好意を持っていることは間違いない。それはそれ、これはこれ。

 

わたしはもう父の名言を父の人格と結び付けて父を慕うことはないが、父が口寄せしてくれた数々の貴重な言葉を、いまも好きな映画の台詞のように時おり思い出す。わたしの人生の脚本家は父にけっこう重要な台詞をいわせるのが好きらしい。最近は出番がないけれど、今後も乞うご期待である。

遅い弔問客

もちおの数少ない友人が連れ立って訪ねてきた。


もちおが友人たちと顔を見て話せない仲になって4ヶ月。お悔やみのタイミングとしてはかなり遅いけれど、今でよかったし、今日でよかった。


新幹線の距離に住むもちおの友人たちは葬儀を終えてしばらくたった頃「秋に線香をあげたい」と連絡をくれた。その頃のわたしは仕事以外のことは食事も着替えも入浴もできず、遺品と各種書類の山に埋もれて悄然としていた。このままでは先が長くないと一計を案じてセブ島へ留学したのが11月。帰国した12月は年末年始で慌ただしかった。


正直いまになってさして面識もないもちおの友人に会ってどう振る舞えばいいのか、寡婦歴の浅いわたしにはわからない。わたしは寡婦マナーに疎い。もっといえば彼らに対する怨みもあった。


わたしは彼らに、少なくとも友人1には「もちおに会いに来てほしい」と何度も声をかけていたし、もちおは帰省するたび彼らに会おうと声をかけた。友人1は告知まもない頃わたしにせっつかれて一度やって来たが、最後に連絡したのは一年前だ。あの日友人1は「仕事明けだし、正月で親戚が来ているから」ともちおの訪問を断った。もちおは友人1のために自作したパソコンを持ってきていた。


確かに急な訪問だった。でも二度と会えなくなるかもしれない切羽詰まった友人に顔を見せるための10数分すら作れないなんてことがあるか。そんなの友人といえるのか。もちおがどんなに寂しい思いをしたか想像したことがあるか。よくもあの状況で短いテキストとスタンプを送って済ませられたな。お前の血は何色だ。


わかってる。友人1はもちおと険悪だったわけでも、悪意があったわけでもない。ただただ迂闊で、友人が死にかけているという現実から目をそらして、元気だった頃のもちおの体力や気力をむやみに礼讃して自分をごまかし、世事にかまけて友に会うことを先延ばしにしていたのだ。


彼らは目の前でやせ細っていくもちおを日々凝視していたわたしとは違う時間の中にいた。いまわたしが自分の小さな世界を守るため、全世界の呻き声から耳を背けているように。


でも友達だろ。数え切れない夜と昼をともに過ごして語り合った仲だろ。その友達が恐怖のどん底で死にかかっている中、おまえに会いに来たんだぞ。よくももちおを無碍に扱ったな。


9月に会ったら何をしたかわからない。



我が家には仏壇がない。いろいろ考えた末、先月ふと思うところあって寝室の飾り棚に小さな写真立てともちおが愛用していたカップ、香立てと蝋燭を置くことにした。


来客を寝室に招くのはどうかと思い、今日は書斎にありもので小さな祭壇を作った。


「後悔していることがひとつだけあって」書斎机に置かれた骨壷を前に友人1がいった。「俺にパソコンをやるって何度もいってたのに、都合つけられなくて。考えてみたら、あの頃俺は腐ってたから、あいつはそれを心配して何とかしてやろうと思ってたんじゃないかって」


「そうだよ」わたしはいった。「『あいつはゲーム好きだし、やりたいこともあるんだから、スペックのいいパソコンあったら張り合いが出ると思うんだよね』っていってたよ。『そこから大会でたり、そのために金貯めたり、色々できると思う』って。どうして会わなかったんだよ」わたしは怒りを隠そうともせずにいった。


「最後に行ったの去年の1月だよ。もっちゃんどんなに寂しかったか」


友人1は床を見つめている。


わたしは泣きながらもちおの最期の話をした。話しながら一生忘れないと思った数々のエピソードの細部がびっくりするほど思い出せないことを知った。書けばよかった。後先考えないで書いておけばよかった。もう一緒に思い出す家族はいない。


わたしは怒っていたけれど、もはや復讐の鬼ではなかった。ただただ悲しくて、悔しくて、不公平だと思った。ひどいよ。あんまりだよ。


もっちゃんの友達のくせに。もっちゃんに出会って友達になれるなんてすごい特権なのに。もっちゃんはすごくいい人だったのに。もっちゃんは死にかかってるときに、あんたみたいな馬鹿にパソコン作って持ってくような人だったのに。逆だったら絶対あんたの顔を何度も何度も見にいったのに。もう二度と会えない。


いうだけいって、泣いて、車座に座って珈琲を飲んだ。珈琲カップは3つ。友人1、友人2、そしてもちおの分。もちおは珈琲豆を挽いて珈琲をいれるのが好きだった。コーヒーミルを使うのはもちおが珈琲を飲まなくなって以来だ。


わたしはもちおが彼らの訪問を喜んでいることを知っていた。今朝支度をしている間中、もちおが妻の肩ごしにうきうきしている気配があったからだ。「生きている間に来てくれたらよかったのに。どんなに喜んだか」と考えるわたしの心に「今日うちに友人1と2が来るな。楽しみだ」と満面の笑みを浮かべるもちおがいた。もちおは友人に会うとき自分が生きているか、死んでいるかなんて些末なことにはこだわらない男になったらしい。


わたしはもちおの持ち物のいくつかを「死蔵せず使ってもらえるなら」と友人らに渡した。それからふと思いついて「これから、カラオケに行こう」といった。


「え…?」
「よくない?歌うの嫌い?」
「いや、好きだけど」「好きです」
「よし、じゃあいこう。わたし最近ひとりカラオケばっかりだし」


わたしは二人を近所のカラオケボックスへ連れて行き、三人で二時間ほど歌った。初対面の友人2はもちろん、顔なじみの友人1とも、もちおが生きていた間は個人的に親しくやり取りしたことがない。当然カラオケにいったこともない。でも今日はなぜかこの面子で昼間からカラオケボックスで歌合戦をすることはこの上なく自然に感じられた。もちおがいると思った。楽しそうだった。9月には想像できなかった弔いの会だった。


「友人2さん、わたしたち結婚したときわたしにmixiで意地悪したでしょ」
「え!…」
「もっと早く知り合えたらよかった。きっと仲良くなれたのに」
「これからでも遅くないですよ」
「そうですね。こちらへお見えになったら気軽に声をかけてください」


わたしは二人を駅でおろしてジムへいった。そして「だいぶ声が出るようになったから、次から坂本真綾を練習するぞ」と思った。



もちおがどんどん死んでいく。毎日まいにちもちおが死ぬ。死んでいることが自然になり、生きていたときが奇跡に思えてくる。そして最近では死んだまま、わたしの人生を温めてくれるようになってきた。


死んだまま、愛してるよと何やかやと伝えてくる。しあわせになって。しあわせにすると、あの手この手で伝えてくる。

岡田斗志夫式モテモテ状態への道

朝日新聞2010年1月23日の「悩みのるつぼ」に「『スキ』のある女しかモテない?」という相談がある。


相談者は33歳女性。容姿は人並み以上で仕事もできるが恋人候補の男性があらわれても関係が深まらない。20代で別れた男性からは一様に「君はスキがない、なんとなくかわいくない」といわれた。


しかしスキとは何か。結局「セックスできそうだ」ということか。周囲を見るとそういう女性が結婚してもなおモテていて正直うらやましい。


「『スキがある』とはフェロモンですか?天性のものですか?スキがない女に恋愛は出来ませんか?」と相談者はたたみかける。


回答者として指名されたのは岡田斗志夫。岡田はこの回答のあと複数の女性を弄んだと告発され、世間を騒がせることになる。


この回答をはじめて読んだときは舌を巻いたが、いま思えば以下の回答には人心掌握歴と経験値の高さがうかがえる。


岡田の回答はまとめると以下のようなものだ。

1 見た目が標準以下の男性に積極的に話し掛ける。中身はいいのに見た目でモテない男性はいくらでもいるので映画や食事、酒に誘う

2 その結果先方からアプローチがあっても(絶対にあると岡田は保証)友達以上、恋人未満をキープ。そういう男性を3人以上つくる

3 1、2を繰り返しながら新規開拓を続け、より良い人があらわれたらチェンジする。これを一年続ける

対象外と考えていた男性との会話や食事は男性観や恋愛観を大きく育て、中身を見る目も磨かれる。周囲に素敵な男性が複数いて、つきあいたいと思われている。これが他人から見ればモテモテだということだと岡田はいう。


ただしきれいに付き合い、きれいに別れること。

・肉体関係は持たない
・デート費用は割り勘
・不倫しない

「周囲に『これが恋だ!という決め手が見つからなくて』とボヤくのも忘れずに」と岡田のケアは細かい。


要するに「微妙な関係の男友達を複数作れ、ただし借りは作るな、火遊びはするな」という話である。


「モテるとはなにか?『素敵な男性が次々言い寄ってくる状態』というのは大間違い。『男に自分を口説かせるように仕向ける行動の成果』がモテです」


やはりモテ農夫は豆なのだ。畑は耕してなんぼ、耕さずして実りをえられるのが豊かな地ではなく、耕し甲斐がある地こそ肥沃な大地なのである。


さて、セブ島へ留学して知ったのだけれど、わたしはとても知り合いたがりである。アスペルガー症候群の分類に積極的奇異型というのがあるが、うまいこと名付けたなと思った。


思い返せば小さい頃からこの調子で、よく知らない人についていったり、完全に赤の他人の家に上がり込んだりしていた。


一方、もちおは人とは時間をかけて少しずつ知り合う性格で、妻の知り合いたがりと招きたがりには閉口していた。

もちおは誰に対しても社交的で愛想がよかったが、実際には機知に富む発想と毒舌、そして迎合と妥協を拒む生き方こそが魅力だった。

もちおの情け容赦のない見解は本当に面白くて、言葉選びの秀逸さと間の取り方にはいつも圧倒された。しかし誰にでもやさしくけして人を否定しないという表向きの顔で結局生涯慕われ続けたもちおには、そのギャップを見せられる人がほとんどいなかった。

そんなわけで妻から友人、知人を紹介され、営業時間がのびると疲れてしまって不機嫌になった。面と向かって人付き合いをやめろとはいわなかったが、いつも二人でいたがり、そこに人をなるだけ入れないとなれば結果的に交友は減る。


(いまだからいうけど、妻が入り浸っていたはてなハイクのコミュニティーにもかなりのやきもちを焼いていた。)


こうして二人きりの離れ小島みたいな生活で、最後の三年間は文字通り四六時中一緒にいた。もちおはどんなに長くいても飽きない魅力を持っていたけれど、これでどちらかが先にいなくなったらどうなるだろうとずっと思っていた。そして恐れていたことが思ったよりずっと早く現実になった。


わたしはセブ島へ留学して、国籍や人種が違おうが、言葉が通じなかろうが、出会った人と手当たり次第に知り合いたがるという自分の性を思い出した。


それは今後の生存戦略としても正しい。


人に慕われる年寄りになりたいと思ってきたが、人に慕われるとは自分を慕ってくれる人が次々言い寄ってくる状態ではなく、自分に慕われることを快く思ってくれる、誘ったらうれしく思ってくれる、喜んで楽しい時間を、あるいは悲しみや怒りを、秘密や打ち明け話をともにしてくれる人がいることを指すのではなかろうか。


これからわたしが目指す、人に恵まれた人生とはこれだ。


どうしたら実現できるか。ここで岡田斗志夫式モテ戦略ですよ。


というわけで、ここ数ヶ月ではてな界隈の人たちをお誘いして、各地でお茶を飲んだり空港を見学したり怖い話をしたり通話をしたり二段ベッドの上下に泊まって上段から落としたスマホを拾ってもらったりしていた。


メンバーは男女混合で既婚者もいる。奢ることもあるし、奢られたこともあった。さらに年齢層を上下に広げ、経歴も様々に、国際色豊かに、モテモテ状態を目指していきたい。


「はてこさん、どうしてるかな。話したいな、会いたいな」といつもいつも思ってくれていたもちおはわたしにとって島のようなものだった。心の拠り所だった島が沈んでしまった。


でも、ときどきそんな風に思ってくれる人たちはまだいる。スターをくれたり、お便りをくれたり、贈り物をくれたりもする。そういう人たちは潮が引くと姿を見せる浅瀬の島のようだ。いつもは見えなくて、満潮には拠って立つところがない。でも島はある。


これからもっと増えるかもしれない。


「はてことなんか遊ぶなら、おまえとはもう遊ばない!」といわれる人もいるかと思うので、誰とどこで遊んだかは内緒ね。

運動の大きなおまけと、運動でまだ解決しないこと

十代から腎炎を患っており、近年とみに靴下のゴム跡がくっきり、というよりべっこり段差になって刻まれるようになっていた。

足が細いのでむくんでいるようには見えないけれど、むくんでいたんだなと痛感する。

ところが先日入浴時にふと見たら靴下跡はあるものの、例のべっこり段差状に凹んではいなかった。

肌艶もいい。やはり運動はいろいろ解決する。

しかし悩みはつきない。

それじゃ次は瞑想だと思って瞑想をはじめた。寝転がったまま、一点を見つめて空気清浄機の音に耳をすますという略式瞑想。

これをやるとなぜかドライアイが治る。渇きそうなものだけどな。やってるあいだスマホ見ないからか。

これまで漠然と想像していた寡婦の姿は夫を思って人知れず泣きながら、人前では気丈に振る舞い、顔で笑っていても心は凍りつき、愛しい日々のことは忘れようにも忘れられないといったものだった。

しかし実際なってみると辛いのは想像を絶する早さでひとりの暮らしに馴染んでいくこと、これまで当たり前だった夫のいる暮らしをどんどん思い出せなくなることだ。

指先から尻の丸みまで、一本だけ伸びていた額の髪の毛や脇の形、まなじりの下がり方、ちくちくした眉毛が頬に当たること、そんな細々とした何もかもを、いつまで覚えておけるのかわからない。それが辛い。何より新しい冗談が聞けないまま、数々のもちおの名句がどこまで思い出せるかわからないのがつらい。

はてなハイクに書いておいてよかったと思っていたのにハイクはなくなってしまう。

笑えないと思っていたのにわたしはまいにち何かしら楽しい思いをして笑い、もちおではない人のことを思い、もちおがいないのにはしゃいだり、もちおがいない未来をなお心待ちに夢みたりしている。

生きるために何でもしようと思ってやったことが着々と成果を上げていく。こうして二人で生きた時間を、はてしない物語のバスチアンのように失っていくのだろうか。

といった悩みに瞑想が何らかの成果を上げるといいな。あとは野菜350gと睡眠か。

筋肉が色々なことを解決する

深夜の行き場ほしさに24時間ジムに入り
話し相手ほしさにパーソナルトレーニングを頼んだ。


身支度して家から出る自信がなかったので
当初は自宅に訪問してくれる習い事を探していたが
ヒメネーがパーソナルトレーニング推しなので
ピアノレッスンよりこっちがいいかと思い


ヒメネーが推していたデニム風スパッツなら
着替えずに運動できることがわかったので
Tシャツとスパッツにセーターを着て
スニーカーを履いて出掛け
室内に入ったらそのままトレーニングをはじめる。


見学のとき「靴も服も着替えなくていい」と聞いて小躍りした。


わたしは運動が嫌いなのだと思っていたけど
わたしが嫌いなのは運動の前後に着替えることと
それらを支度して持ち歩くことと
意にそまぬしごきだと言うことがわかった。


フラッといって
好きなように
自主的に励む運動は
めっちゃ楽しいじゃないですか。なにこれ。


何かに似てると思ったら
公園へいって遊具で遊ぶ
あれと同じだ。


わたしは自主的に公園へ出掛けて
親が怒り出すまで帰らず
意欲的に遊具で遊ぶ子供だった。


でも、もしも
公園用の服に着替えなければならず
決まった時間に出掛けるよう決められて
滑り台何回、ブランコ何セットと強制されて
挨拶をどうこう、フォームをどうこう言われていたら
絶対公園拒否児になったと思う。


ジムスタッフにメニューを作ってもらって
それをひとりで黙々とやる。


深夜2時、3時でも
仕事前でも
買い物帰りでも
フラッと寄って黙々とやって帰る。


楽しい。


トレッドミルYouTubeが見られるので
count on me を歌いながら歩いていた。
3回歌うと10分、5回歌うと15分くらいになる。


調子が出てきてうれしくなり
だんだん走るようになって
「おやおや、1km走れちゃった」
とやったら激しく筋肉痛になり


回復するなり懲りずに走ったら
持病の遊走腎に堪えたらしく
震え上がるような濃さの血尿が出たので
たまたまトレーナーからもすすめられ
エアロバイクに変えて
また歌い続けた。


だんだんちゃんと歌えるようになってきて
昨日遂にほぼ噛まずに歌えるようになった!!


と言うことに、ひとりカラオケへいって気づいた。


そして


思いがけず声量と声域がググッと広がっていることにも気づいた。


わたしは声が低いのに
歌う声は高く細く
なのに高音は裏返る。


背が高くて痩せてるからかなあと思ってきたけど
腹筋背筋鍛えて二週間経って
下腹に筋肉のパンツみたいなものが出来て
このバミューダトライアングルの真ん中に
声がでるボタンのようなものがあるらしく
そのスイッチが入るとやすやすと出なかった声が出る。


すごい!


すごい!すごい!


感激!


と、ひとり浮かれて、またカラオケ帰りにジムへいった。


トレーナーは肯定ペンギン族らしく
小さなことから大きなことまで褒めてくれるので
この想定外の効果を
次回会ったらさっそく伝えようと思う。


このトレーナーは
「筋肉を増やしたい、身体を柔らかくしたい」
というわたしの要望に
「はてこさんにとってのトレーニングは食べることです」
というもっともな課題をくれた。


2200kcalを最低ラインに2400kcal摂りましょう。


そうか。食事はトレーニングか。
明確な目標を納得できる形で提示されると
アスペはこつこつやらずにいられないので
「1000kcal×3セット目標に食べるか」
みたいに買い物と食事を見直しはじめた。


わたしはもちおの闘病以来
食べることへの心理的な葛藤がとても強くなった。
あれだけ節制して選んできたあれこれを
それ以前の暮らしに戻すことができない。


「身体のためにちゃんと食べなきゃ」
といった言葉は
葛藤を強める圧力にはなったが
食べる力にはならなかった。


しかしいま
胸筋、背筋、腹筋、大臀筋有酸素運動と並んで
胃腸を働かせることもトレーニングだと
何かストンと腑に落ちて
意識的にあちこち出掛けては食べ
買い込んでは食べている。


たいした量ではないけれど
体重は43kgをキープしてるし
セブ島留学前は42kgだった)


それでいて
エストは4cm細く57cmになった。
MサイズのUNIQLOスパッツがぶかぶかだ。


目標は二十歳の頃の51kg~48kg
「増量は運動より食べることでくじけちゃう人が多いんですよ」
と、トレーナーが言うけど
運動したあとはしないときより食欲ますので
筋肉がいろんなことを解決してくれるといいなと思う。


直前までふつうにしていても
日常のなかのふとした瞬間に
「耐えられない、これ以上生きていたくない」
と胸がつぶれそうなことがあるのに


それも本当の現実なのに


わたしは着々と生きる方へ、命を燃やす方へ
なりふり構わず、金に糸目をつけず歩み続けていて


そのことを頼もしく勇ましい気持ちで思えるときと
非道く冷酷でふてぶてしく浅ましいと思えるときがある。
後者の場合は頭の中で自分を罵ることを止められない。


でも、もちおはいつも
「はてこさんは、太ったら、ほんときれいだと思うんだよね」
といっていたので、太ったら喜ぶよね。


「しあわせになって。ひとりにしてごめんけど、しあわせになって」
って去年の夏に泣きながらいってたから。


筋肉とがんばるわ。