斉藤由貴はなぜ赦されないのか

消えないだろうと思っていた斉藤由貴NHK大河ドラマを降ろされ、少し驚いた。

 

斉藤由貴はアイドル全盛期に二度も既婚者と道ならぬ関係になり、大々的に報道されながら仕事を干されることもなく幸せいっぱいの笑顔で電撃結婚した実績がある。今度もどうということはないだろうと思っていたら、交際相手とされる男性が斉藤の自宅で果物を食べながらパンツを被っている写真が雑誌に掲載され、業界は手のひらを返した。

 

男性の職場らしき場所でのキス写真でも揺らがなかった芸能界のこの豹変ぶりに、わたしは共感することができなかった。斉藤自身の過去の例、また不倫関係が露呈したあとも仕事を続けた数えきれない芸能人と違いはどこにあったのか。

 

斉藤由貴ベッキー、そして矢口真里と不倫関係に陥ったことで大罪人として執拗に叩かれるのは常に女性だ、これは女性差別だとする意見もあった。これは一理あるように見える。しかし不倫関係が露呈しても涼しい顔で仕事を続け、後におしどり夫婦といわれるようになる女性はいくらでもいる。

 

わたしがはっとしたのは斉藤由貴関連のトピックを追っていたときにGirl’s ちゃんねるで見た意見だった。矢口、斉藤は自宅に不倫相手を入れている。ベッキーは不倫相手の実家を訪ねている。既婚者が伴侶以外に思いを寄せることはあるにしても、伴侶と家族の聖域に相手を連れ込むのはどう考えてもゆるせない。そんな人間が上がりこんだ家で暮らす家族の身になってみろ。これはもっともだ。

 

家は自分だけのものではない。斉藤が家族に内緒で仕事部屋を借り、そこに男性を上げていたことは大いに問題だとわたしは思ったけれど、夫や子供にしてみれば、彼女が家族の知らない世界で家族に見せない時間を持っていることよりも、外の世界から自分を守ってくれるはずの我が家に、妻であり母であるただひとりの身内に懸想する男が上がりこんでいることの方が生理的に耐えられないだろう。

 

わたしの父は外に女性を作ることが何度もあり、母は子供たちの前で口を極めて父をなじった。しかしわたしたち子供が父以上に厭わしく嫌悪を覚えたのは父の留守に母に下心を抱いて訪ねてくる父の友人であり、間男志願者をわが子に押し付け、どこかはしゃいだしかめっ面で隣家の舅姑宅へ逃げてしまう母だった。母に思いを寄せる男の一人は酔った勢いで父の留守に電話をかけてきて母を口説き、母は居間の電話台で浮かれながら相手を諫めつつも電話を切ろうとしなかった。このときの胸糞悪さをわたしは生涯忘れないと思う。

 

斉藤由貴は若い娘だった頃、既婚者と旅行へいき、路上でキスをした。これは若い娘の逸脱行為、若気の至りとして情状酌量の余地が世間にあった。斉藤が妻となり母となってから仕事部屋でただならぬ関係を持っているらしいと報道されても世間はまだ同情的だった。しかし家族の留守に聖域である居間で下着を被ることをゆるすこと、これは女優の恋という幻想を吹き飛ばすだけの不躾で考えなしの行為だったのだろう。

 

斉藤由貴が女であること、母であり、妻であることで社会的な制約を受けていることをわたしは微塵も疑わない。歌手として、女優としてこれだけ仕事をしながら5時起きで子供の弁当を作っていてエライねなんて褒められるのはまともな評価ではない。家族と過ごす時間はもちろん大切だが、家事代行でもなんでも頼んで、芸の肥やしになるレッスンを受け、芝居を観て、旅をして、エステとジムに通うのが役者として、女優として、あるいは歌手として職業人として賞賛される生き方ではないのか。

 

今回のことで残念だったのはスポンサーの顔色をうかがう必要のないNHKが演技力と無関係な斉藤の私生活のスキャンダルで彼女を降板させたことだ。政治家は政治をしてくれたらいいし、役者は芝居を、歌手は歌を歌ってくれたらいい。いい大人の色恋沙汰に口を出して作品の質がどう上がるのか、わたしには理解できない。そうしたどうにもならない人の情を描くのが芝居であり、歌であるはずなのに。

 

一方で矢口真理、ベッキー斉藤由貴が赦されないのはひとえに女性差別だとは思えない。男たちは別宅を持って家族に対して最低限の矜持を示すようにいわれてきたのだ。

入院前夜のレイトショー Hidden Figures ドリーム

前回書いたもちおの入院予定日だけれど、当日の朝に電話があって、病院の都合で手術が延期になった。いよいよ明朝入院する。今夜はレイトショーでHidden Figures, 邦題ドリームを見てきた。NASAがロシアと宇宙計画で競争していた時代に計算係として働いていた黒人女性たちの物語だ。

 

120分の映画であわせて40分くらい泣いていた。1/3だ。冒頭に出てくる少女時代のキャサリンを見るなりもう泣いていた。過去に何でもないシーンで泣きまくった映画は「Up! (邦題カールじいさんの空飛ぶ家)」と、「崖の上のポニョ」と「Mr.インクレディブル」がある。

 

このうちMr.インクレディブルがもっとも今回とテーマが重なる映画だった。つまりありのままの自分でいることを国家レベルで規制される事態にどう立ち向かうかということだ。幼いキャサリン、そして黒人として不当な立場を強いられる彼女の両親は、この近年稀にみる突出した才能をどのように守り育てていくのか。期待と不安の入り混じった両親の顔と幼いキャサリン素数を数える真顔を見ているだけで不安と緊張で泣けてきた。

 

もっと若いころに見たらこのような差別解消のために何かしなければと切羽詰まった思いを抱いたかもしれない。子供の頃に見たらヒロインたちのような数学や工学の天才に心から憧れただろう。すっかり大人になり、人生も折り返し地点を過ぎたいまの自分で思うことは、わたしもわたしの人生を、社会的にどう評価されるにせよ、自分の属性と個性を守り育て、貫きながら生きていく勇気を奮い立たせようということだ。

 

マイノリティはマジョリティに張り合っているわけではない

 この映画は目前の差別問題を解消して、しかるのち目下の事案に取り組むという方式、つまり黒人差別を解消してから就労問題に取り組むといった方法で進行しない。彼女たちは「人種差別、女性差別学歴差別と闘った弱者」でも、「歴史的偉業を残そうと奮闘した天才」でもない。目前の問題を解消するために自分の能力を最大限に発揮するさい妨げとなる障害があり、結果的にそれと戦うことになっていく。

 

つい昨日、「フェミニズムとは女性が男性並みの権利を求めることだ」と書いているブログを見た。これは本質的な間違いで、フェミニズムとは女性が人としての権利を取り戻すことである。前述の勘違いをしている人は続けて「しかし男女は違うものであり、男女の待遇の違いは差別ではなく区別である」と論じていた。人としての権利を回復するとは女性が男性のように扱われることではない。黒人が人としての権利を取り戻すとが白人になることではない同じだ。「マイノリティはマジョリティに張り合い、逆らい、対抗している」とマジョリティは考えがちだが、マイノリティはマジョリティと同化することを望んでいるのではなく、並んで隣に立つことを望んでいる。隣に立つことが反逆になる社会がおかしいのだ。

 

黒人として白人が独占する分野に踏み入らないこと、女として男が独占する立場に踏み入らないこと、有色人種として白人用の学校、図書館、水飲み場やバスを避け、白人用のトイレを避けること。彼女たちがこれらの分離政策に反対したのは男性になることを望んでいるからでも、白人扱いしてほしいからではない。そのような不当な差別が持てる能力を発揮するにさいして無益な制限を課し、多岐にわたる現実的な問題を引き起こしているからだ。一方それを強いる側は驚くほど軽々しく気まぐれに制限を課す。引き起こされる問題にはいたって鈍感であり、問題がわが身に降りかかってくるまで対処しようとしない。

 

制限を課す側にとって自らが独占する行為は単なる行為ではなく、特権であり名誉である。それを実現するのに適した人物とはその行為を上手くやれる人物ではなく、名誉を受けるにふさわしい人物なのだ。同様に制限を課す側がマイノリティに押し付ける行為は何故かマイノリティにとっては名誉であり、マジョリティにとっては不名誉なものである。正規雇用は白人にふさわしく、有色人種は能力によらず非正規雇用が適切。高度な数学の問題について見解を述べることは白人かつ男性が請け負うべき名誉であり、有色人種向けに用意された設備を使用することは有色人種にとっては適切で感謝すべきこと。家事と育児は女のしあわせ、男がそれをするのは不名誉といった具合に。

 

こうした特権階級の選民意識が偉業を成し遂げるさいにどれほど足手纏いで鬱陶しく腹立たしいものなのかを示すエピソードは日本の労働者にとっても非常に身近なものであるに違いない。

 

人権回復とは被差別属性を捨て、嫌悪することではない

この映画のヒロインたちはNASAの頂点に立つ天才だけれど、アメリカの学園ホームコメディにありがちな便底眼鏡で髪も梳かさず服装に無頓着な変わり者のドジっ子天才少女の成れの果てとして描かれていない。彼女たちが私生活においてはエキゾチックな美女でもなければ、「女を捨てた変わり種」でもない。彼女たちが私生活においてあくまで普通の黒人女性であり続けたこと、これも非常に大きな注目ポイントだ。つまり「普通の女はNASAで天才的な活躍をすることはないけれど、彼女たちは変わり者で中身は女じゃなく男だった(あるいは名誉男性席に招くにふさわしいトロフィー美女だった)」という巧妙なミソジニー的メッセージが加味された映画ではなかった。

 

若さの盛りを過ぎてなおしあわせな家庭づくりに憧れる女性が、家計のやりくり、子育て、パートナーシップに悩み、褐色の肌とごく平均的なプロポーションによく似合うドレスに身を包み、美しくセットした髪を揺らしながらNASAの第一線で活躍する姿はとても魅力的だった。白人たちの白いシャツと淡色のスーツに囲まれ、ひとり原色のドレスで佇むヒロインはどのシーンでも毅然とした輝きがあった。男好みの女になる必要もなければ、男のようにならなくていい、白人のようである必要もないのだというメッセージが慎重に繰り返されていた。

 

男性中心の社会で人事や管理職にアンケートを取ると淡色、暖色のフェミニンな服装の女性のキャリアは軽んじられる傾向があるという。濃色、寒色のマニッシュな服装で同じ経歴を示すと反応がまったく違う。もちろん同じ経歴を見せれば男性の方が能力の点で信頼できると評価される傾向がある。

 

こうした外見による偏見は人種間でももちろんある。日本人は欧米列強に加わろうとちょんまげを落とし、洋装で西洋文化になじもうと必死になった。サン・テグジュペリは「星の王子さま」に民族衣装を着て耳を傾けられなかった天文学者がスーツ姿で登場するなり信頼されたという皮肉なエピソードを書いた。白人を真似て白人のようになることが白人に認められる道、強者男性のように装い、強者男性のように振舞うことが男社会で受け入れられる道ということだ。

 

こうした点で近年のハリウッド映画に見られる「男勝りなヒロイン」の目白押しにわたしは抵抗がある。淑やかで家庭的であることが女の義務でないのはもちろんだけれど、「男並みに男らしい」女である必要もないからだ。「男なんかに頼らない、ロマンスにも興味がないし、家庭におさまるのはまっぴら!男よりもずっとタフでマッチョでセクシーで…」というヒロイン像は「だから女は、やっぱり女だ」と言われないよう必死な、いわば女らしさフォビアのようなものだと感じていた。

 

「やっとヒロインも国を揺るがす問題に取り組みながらロマンスを楽しめるようになったか」と書いていた人がいたけれど、本当にその通りだ。愛するパートナーとしあわせな家庭を持ちたいと願うことは女の弱さでも人としての弱さでもない。まして男と社会の期待におもねているのでもない。「男と対等に渡り合いたいなら女を捨て、女のしあわせをあきらめて」なんて冗談じゃない。帰るべき居場所にどんな家族が待つかは多様性に富んでほしいけれど*1、愛することも育むことも諦めて、なおかつ大義があれば孤独なんて感じませんと嘯けないと強い女とは認められないなんて押しつけはまっぴらだ。*2

 

ささやかで強烈なレイシズム

黒人差別を描いた映画には衝撃的な暴力や残酷な虐待が描かれることが多いけれど、この映画は最初から最後までそういった場面がない。またレイシズムに凝り固まった悪質な人物も出てこない。つまり無教養で偏見に凝り固まった前時代的な暴力やあからさまな蔑視ではなく、「自分は良識的だ、これは差別ではない」と考えている平均以上の知識と社会的ステイタスを持った現代の上品な人々がいかに無神経に他者の尊厳を踏みにじるかに焦点をあてている。

 

「ヘルプ」ほどではないが、差別的な言動をするのがだいたい白人女性で、リベラルな見方をするのがだいたい白人男性という演出がやや気に食わないが、実際黒人女性に女性同士の連帯ではなく白人としての選民意識をぶつける女性は少なくなかっただろう。でも白人男性のセクハラも相当あったんじゃないの?と思ったが、この映画の肝は黒人差別の陰惨さではなく、こうした問題を是正することができるのだという希望にある。好意的に考えれば感じのいい白人上司を出すことはよいモデルを与えることにもなるのだろう。*3

 

分離政策を差別ではないと言い張り、思い込む人々の言い分はめちゃくちゃだが、そう思えるのはわたしがそうした文化で育っていないからで、実際それが当たり前で育ったら当時を思い出して素直に反省できるかどうかはわからない。疚しさもあるだろうし、自己弁護もしたくなるかもしれない。

 

問題はこうした分離政策、また他者の文化や尊厳を軽んじて同化政策に走ることが現代の日本にどれほどあるのかということだ。外から見れば、また当事者からすれば一目瞭然のこうした差別に果たしてどれほど気が付いているだろうか。*4

 

差別の多くは巧妙に守るべきマナーとして流布されている。これに抗うことは控え目にいっても不穏な空気を醸し出す。それでも自分が自分である以上、抗わなければならない場面は必ずある。マジョリティに目を付けられない生き方を選んで自分を殺すか、目を付けられても自分自身として生きていくか、勇気をもって選ばなければならない。受けのいい差別の解消法なんてない。

 

「しないではいられないことをし続けなさい」

「しないではいられないことをし続けなさい」。これは水木しげるさんの幸福の七ヶ条のひとつだ。ヒロインたちは上司を敵に回し、家族にたしなめられ、国を相手取ってまでしないではいられないことをし続けた。

 

とても勇気のいることだけれど、わたしもそうしたいと思う。しないではいられないことがわたしにはある。やってもやってもやりつくした感じがしないこと、興味がつきないことがある。それで周りとうまくいかないことが何度もあった。外からの圧力もさることながら自分で自分に圧力をかけ、失敗するかもよ?怒られちゃうかもしれないし、嫌われちゃうかもしれないし、それで叩かれちゃうかもよ?と日夜わーわーいう内なる声もある。それでもせずにはいられないことをし続けて、生きていきたいと思った。

 

さしあたってうまくまとまらないままブログを書くことにした。いい映画だった。もちおもたいそう力づけられたそうで、退院したらまた観に行こうと話している。

*1:子供がいる、里子がいる、大人だけ、異性・同性のパートナー、友人、大家族、シェアメイト、etc.

*2:シングルマザーが家族公認でデートを重ね、家庭に恋人を招いてキャッキャウフフするという場面がロマンチックに上品に描かれていたこともよかった!母親は女を捨てろなんてまっぴらだよ!!

*3:本当にああいう人だったらいいけどね!

*4:中国政府がチベットに自主教育を禁じることは不当だと思うのに、日本政府が在日朝鮮人学校を無償化しないことはおかしいと思う人がどれほどいるだろう。

保毛尾田保毛男は新キャラにリニューアルされるべきだった

 雑記書いてる場合じゃないけど書いちゃうパーソン。

 

 とんねるず石橋貴明扮する保毛尾田保毛男について怒りを表明することをゲイのみならずLGBTQの心の声を代弁する行為だと考えて、勝手に当事者を代表するべきではないといっているのを見た。

 

 弱者を擁護し、弱者の心の声を代弁する。これはつまり「止めなよ、嫌がってるでしょう」である。こうした認識を持つ人は今回のネタに対して一部の性的少数派当事者が怒っていないことを根拠に、部外者である非当事者が怒りを表明するのは僭越で傲慢なことだという。つまり「嫌じゃないっていってる(やつもいる)のに勝手に決めつけるな」だ。しかし槍玉に上げられている当事者が自分に対するバッシングについて何を思い、どのような意見を表明するかということと、それを見ている自分自身がどう思うかは別問題だ。「止めなよ、嫌がってるでしょう」ではなく「止めなよ、それはいじめだろ」だ。

 

 そもそも醜悪に戯画化されたゲイキャラクターに怒りをあらわにすることは弱者の代弁ではなく、自らの立場と信条の表明である。これはあらゆる差別にいえることだけれど、差別やヘイトに反対するとはマイノリティの意見を代弁し、マイノリティを保護することが目的ではない。かつて女性の手を取り、椅子を引き、ドレスと花束をプレゼントして家の奥で守る男性がフェミニストと呼ばれることがあったが、フェミニズムが男性好みの女性を守る運動でないのと同様、あらゆる人権尊重に基づく活動は自分も含めた個々の権利の侵害を断固ゆるさないと表明し、行動を起こすものだ。難しく考えずとも人種、性別、性的志向や社会的立場を偏見に基づいて嘲笑することを不快に感じるのはごく当然のことだろう。

 

 「ゲイをネタにすることを禁じるのはゲイを排除することだ、それこそLGBTQ差別だ」といっている人もいた。要するに「遊んでるだけだろ、なにムキになってるんだ。こいつを仲間外れにすることの方がいじめじゃん」と返してくるわけだけれど、こちらは「どうしてそいつを仲間に入れるときは毎度そいつをいじるネタを仕込まなきゃならないのか」と問うているのである。ろくでなし子に至ってはゲイいじり批判、保毛尾田批判はキモキャラを売りにしている芸人を追い込んでいると擁護なのか逆張りなのか斜め上の平常運転発言をしていたが*1、これは「いじりを止めるといじられキャラの居場所がなくなるじゃん」ということで、いじりという名のいじめを続ける以外に居場所がない現状を追認して何の発展性があるのかと問いたい。
 
 マイノリティが属性によってパターン化されるのは多様化ではなく普遍的な差別である。頭の弱いブロンドの若い女、朴念仁で大食漢な黒人の大男、強欲なユダヤ人といったあからさまな蔑視はもちろん、心優しく清らかな障碍者、淑やかで慎ましい母親といったマジョリティ好みのマイノリティキャラもそうだ。

 

 醜悪に戯画化されたゲイキャラクターが多様性のひとつとして受け止められるのはゲイであること自体が際立った個性とならない文化の中だけだろう。多くの人はヘテロであることを目立った個性だと考えない。愛情と性的志向の在り方は異性愛者であるというだけではひとくくりにできない。ではなぜ同性愛については貧しいパターン認識でわかったような気になるのか。

 

 ハリーポッターシリーズに登場する魔法学校の校長ダンブルドアはゲイだと作者のJ.K.ローリングはTwitterで明かした。それに対してフォロワーから「彼はゲイに見えない」という意見がきた。ローリング姐さんは「それは単に彼が人間に見えるからでは?」と答えた。*2

 ローリングはダンブルドアをキャッチーでステロタイプなゲイキャラクターとして描かなかった。ハリーポッターシリーズに登場するヘテロが多種多様であったのと同様、ダンブルドアの個性はゲイであるというだけで語りつくせるものではなかった。


 フジテレビは30周年記念として昔のパターンを踏襲しつつ新しいギャグをやるのなら、異性愛で頭がいっぱいの醜悪な男性として保毛尾田そっくりな屁手露多屁手雄を出してほしかった。頭の中は女の尻を追いかけることでいっぱい、隠しているつもりでそれがダダ洩れな屁手露多屁手雄のキモさは異性愛を微笑ましく好ましいと思わせるジョークになるかどうか見物だ。おそらく烈火のごとく怒りたち、抗議するものが出るだろう。そのときこそ「社会への皮肉をジョークにすることすらゆるされないとは窮屈な時代になったものだ」とぼやいてみたい。

「ジャップオス」呼ばわりは行儀が悪いから批判されているわけではない

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 大嫌いな人を侮辱したくて、おまえは自分が蔑むグループの一味だと断言する人がいる。そのグループを本当に蔑んでいる場合もあるし、社会的に蔑まれているのでその言葉の意味をよく考えず、反射的に罵倒語として使うこともある。

 

黒柳徹子は幼いころに見ず知らずの子供から「チョウセンジン!」といわれたことがあった。いったいなぜそんなことを言われたのか理解できなかったが、語気の鋭さ、憎しみのこもった恐ろしい形相から罵倒されたのだということはわかった。これは「窓際のトットちゃん」のエピソードだけれど、その子は朝鮮人だったのではないかと黒柳は書いている。子供は自分自身が平素いわれている侮蔑の言葉を誰かにぶつけてみたくてそのまま使ったのではないか。

 

わたしも見ず知らずの子供からJR町田駅の雑踏で突然侮辱されたことがある。「デーブ!デブデブ!」と背後から子供の声がした。わたしはBMI15の女で学生時代は「ルパン」「オリーブ」と揶揄されてきたので自分がデブと囃し立てられてられているとは俄かに信じがたかった。振り返ると丸々と肥え太ったプリプリの男子が、両手を頬の横でひらひらさせはち切れそうな腹を上下させながらぴょんぴょん飛び跳ねていた。わたしは「その子はいつも自分がいわれている言葉を侮蔑語として誰かにぶつけてみたくてそのまま使ったのではないか」という黒柳徹子の言葉を思い出した。

 

被差別属性を持つ人がその言葉で他者を罵る例としては女性が女性に対して「女々しい」というように、その言葉に込められた差別性に気づかず慣用句として使っている場合もあり、根が深い。最近女性蔑視的な男性のことを「ジャップオス」と称する人たちがいて、これは差別的なのではないかという議論がある。「ジャップ」である我々は自虐的に「ジャップ」を使うことを容認されるべきだろうか。ここに至る経緯を書いておく。

 

ツイッターレディース

去年の秋、Twitterツイッターレディースと呼ばれる人たちがあらわれた。きっかけは日本語が書ける韓国のフェミニストが、常日頃Twitterで罵倒されている女性たちを助けるため、傍観せず積極的に介入しようと呼びかけたことがはじまりだった。はてなでもよく見かける光景だけれど、とくに人種差別や女性問題に関して女性が意見すると、陰湿で下劣な粘着をいつまでも繰り返されることがある。粘着される側は多勢に無勢で疲弊し、言葉の暴力に心底傷つく。こうした問題を見て見ぬふりをするのをやめて、悪質な行為をやめるように意見しようというのが発言の趣旨だった。

 

わたしが見ていた範囲では当初呼びかけた韓国のフェミニストは粘着されている人を見つけては介入を呼びかけ、自らも間に割って入っては簡潔ではっきりした意見を表明していたものの、けして罵詈雑言を吐いてはいなかった。しかしこうした介入に熱心な人たちの中には「目には目を、セクハラにはセクハラを」の精神で競うように罵詈雑言を吐く人もあらわれた。これがツイッターレディースである。

 

罵詈雑言と差別的発言の違い

ツイッターレディースのみなさんはフェミニズムについてスーツで講演するようなスタイルではなかったが、女性とフェミニストへのあらゆる嫌がらせに勇敢に向かっていった。実際こうした介入で執拗な嫌がらせが止むこともあったし、自分への嫌がらせが見過ごされていないと感じるのはとても心強いものだ。ツイッターレディースの口の悪さを問題視する人は日増しに多くなったけれど、その大半はフェミニストへの罵詈雑言は黙殺してきた人たちだった。

 

セクハラやレイシズムを傍観せず反対するのは大切なことだ。そのさい礼儀正しく品行方正でなければならない理由もない。攻撃に反撃するカウンター活動、差別と被差別の立場を逆転させて見せるミラーリングも問題を明確にする効果がある。「死ね」といわれて「おまえが死ね」と返すのも、「痴漢は男の本能」に「玉潰しは女の本能」と返すのも言論の自由だ。しかしこうした特攻隊のなかに侮蔑語として相手を被差別属性で揶揄するものがあらわれた。

 

侮蔑語として使われた差別語を侮蔑語として使うこと、相手を侮辱する目的で自分が蔑むグループの属性で呼びかけること、そして意見を同じくしないのは相手が自分が蔑むグループに属すからだといい募ることは残念ながらレイシズム以外の何物でもない。

 

女性差別的な発言者に対して脈絡もなく自閉症だ、アスペルガー症候群だといったり、怒りたつ相手に火病だの母国に帰れだといったり、MtFに心根が男だといったりするのはそのものずばりのレイシズムだ。家族に自閉症者がいることをbioに書いている人に家族を侮辱するようなことを書いているものもいた。その人がフェミニズムについてどう考えているにせよ、こうした発言は己の差別意識を露呈するヘイトスピーチである。「ジャップオス」「ジャッポス」はこうした一連のスラングから生まれた。

 

一時期白熱したツイッターレディースとその支持者たちは男性に対するあらゆる罵詈雑言は批判すべきではない、それは女性への抑圧であり、女性差別主義者に加担することだと主張していた。わたしはこれにまったく同意できず、以下のエントリーを上げた。

ヘイトスピーチとは「弱いものいじめ」のことではない - はてこはときどき外に出る

これがもとでブロックされた人、擁護から敵対へまわった人もいたけれど、仕方がない。わたしは性自認として男性が憎いわけではなく、女性蔑視の男社会に反対しているだけなので、無差別な男性憎悪には共感できない。

 

その後しばらく諸事情でTwitterから離れていたのだけれど、戻ってきたら当時ツイッターレディースを名乗っていた人たちのほとんどがアカウントを凍結されるなどしていなくなっていた。名前を変えて戻ってきている人もいるようだけれど、誰が誰なのかよく知らない。*2カウンター活動のきっかけをくれた韓国のフェミニストもいまどうしているのかわからない。しかし女性蔑視に反論するさい差別的な侮蔑語を使う人はいまでもいる。 

 

「ジャップオス」の問題

差別語で人を侮辱するさい共通しているのは他者にぶつける侮蔑語に己の属性が含まれることはほとんどないということだ。その点日本人が日本人を「ジャップ」呼ぶのは少々変わっている。

 

「ジャップオス」と並んで問題視される言葉に「クソオス」というものがある。「クソオス」は言い換えれば「馬鹿野郎」である。馬鹿な男は馬鹿野郎と呼び、糞な男をクソオスと呼ぶのは言論の自由だ。これを男性全体への侮辱、男性性への攻撃というのは基準が高すぎるように思う。*3

 

しかしオス、メスという言葉と違って「ジャップ」はあきらかに差別的な意図のある場面でのみ使われてきた言葉だ。「ジャップ」と呼ばれた人たちがいかに過酷な迫害の歴史を見たかを考えればこれが軽々しく使っていい言葉でないことは一目瞭然ではないか。少なくとも圧倒的なマイノリティとしてそうした言葉で侮辱され、生きる権利を侵害された経験のある人を前にしていえる言葉ではない。

 

ではなぜネットの議論に「ジャップオス」などという過激な発言が飛び出すかといえば、この国ではジャップ呼ばわりされたことがない者こそがマジョリティだからである。

 

これは黒柳徹子朝鮮人呼ばわりした子供とは違う。「最初に女性をジャップメス呼ばわりしたのは男の方だ、言い返す女を批判するのはトーンポリシングだ」と反論している人がいたが、その男もまたジャップ呼ばわりされたことのないマジョリティであるため、自分の発言の劣悪さが理解できていない無知な馬鹿なのである。無知な馬鹿の差別発言をそのまま使うのはヘイトの再生産にほかならない。

 

漫画家の伊藤巳美華は3.11の復興支援メッセージとして書いたイラストの旗に「Jap」と書いて批判された。伊藤は「ジャップという言葉を日本人という意味でしか考えていなかった」と謝罪し、イラストを修正した。海外と接点のない日本人の大半は「ジャップ」という言葉がどれほど差別的な歴史を持つか、その言葉で生きる権利を奪われた人たちがどこで何をしているのか知らずに生涯を送る。それを責めることはできない。

 

しかし知ってなお、指摘されてもあくまであれこれ理由をつけて使い続けるのはありふれたレイシズムだ。その人は日本人として民族の誇りを傷つけられ、家を奪われ、仕事を奪われ、土地を追われ、安全に暮らす権利を奪われた日本人たちを踏みつける者たちに自ら加担しているのだ。「自分はジャップという言葉をそんな差別的な意味で使ってはいない。こんなことに過敏に反応するのは言葉狩りだ」という日本人を、彼らは大いに歓迎するだろう。

 

マッチポンプヒューマンライツ

差別の解消と人権をうたいながら他者の人権を軽んじる。マイノリティの苦境を声高に叫びながらマジョリティの自覚がない。これはフェミニストを自称する女性に限った話ではない。差別の解消と公平な社会の実現を熱心にうたいながら日夜女性蔑視的な発言を繰り返す男性は非常に多い。またチベットパレスチナの苦境に心を寄せながら在日朝鮮人アイヌ琉球に関しては口を極めて民族の誇りを傷つける人もいる。

 

口が悪いのは大いに結構で、頭がよくユーモアがあって口が悪い人はどこでも人気者になる。うらやましい。こうした人の揚げ足をとるのはたいそう頭が悪く見えるし場もしらける。こうした口の悪さでヘレンケラーを守ったマーク・トウェインは賞賛に値する。口が悪いことと差別的であることはまったく別問題だし、個人的な口喧嘩と属性を攻撃するヘイトスピーチは違う。

 

「マイノリティからマジョリティに向けての攻撃はヘイトスピーチにならない」。それはそうだけど、マイノリティ属性を持つ人が別のマイノリティ属性を持つマジョリティを攻撃することはヘイトスピーチになる。あらゆる場面でマイノリティである人はいないし、すべての点でマジョリティである人もいないからね。

 

kutabirehateko.hateblo.jp

kutabirehateko.hateblo.jp

 

 

 

 

*1:

反ヘイトスピーチ裁判

 信恵さんにいただいた手作りの虹色蝶のブローチ。LGBTQ支援

*2:アイコンが変わるとアカウントの区別がつかなくなるのでなおさらよくわからない。

*3:とはいえわたしはこうした問題に造詣の深い友人から「馬鹿というのは差別語だ。この言葉は長年知的障害を持つ人たちを侮辱するのに用いられてきた」といわれたことがある。男性をオス呼ばわりすることが単なる侮辱か差別かの線引きはそれぞれ違うだろう。ポルノのなかで女性の人格や尊厳を無視する文脈でメスという言葉を頻繁に使うことを思えばカウンターとしてオス呼びするのは自由だと思う人もいるだろうし、そのような文脈で使われてきた言葉だからこそ侮蔑語としても使いたくない人もいると思う。ちなみにわたしは使わない。カタカナ打ちするのが面倒だし、なんかしっくりこない。「オス」という言葉にネガティブな印象もないしな。

入院前にすませたいことがあるもちお

雑記がんばるパーソン。

 

もちおは今週点滴用のポートを入れる手術を受けるために入院する。「湯治へいっておいでよ」と妹からお見舞いが届いたが、入院前にやることをすませておきたいからと家にいて、忙しくしている。そして今日はひとりで宮崎へいった。こんなことは告知以来はじめてだ。わたしも直前まで一緒にいく予定だった。しかしわたしは寝不足でどうしても家で寝ていたかったのだった。こんなことも告知以来はじめてである。もう自分に打つ鞭が効かないのである。

 

もちおは去年受け取ったお見舞いを元手に、中古やジャンクのPCパーツをフリマアプリやオークションサイトで取引するようになった。取引の延長で動画も100本くらい上げている。毎日のように宅配業者がやってくる。妻の設計と義父の施工でインテリア雑誌に掲載したいほどすてきになった書斎はふたたび足の踏み場もない作業場となり、部屋の密度は日々高まっている。

 

最近は仮想通貨を掘るのが忙しいらしく、24時間二台のPCが全力で稼働しているため、書斎のドアから常時温熱が放出されている。凍える心配だけはなさそうだけれど、電子レンジをつけるとブレーカーが落ちるようになった。シロクマに申し訳ない。

 

うずたかく積み上げられた段ボール、梱包材、筐体、グラフィックボード、各種コード類にいったいどれほどの価値があるのかわたしにはわからない。わかっているのはもちおに万が一のことがあればすべてゴミで、それを処分するのはわたしだということだ。ちなみにもちおの銀行口座やカード番号、各種サイトのIDをわたしは知らない。*1儲かっているかどうか知らないが、現金はほとんどないということだけは今日知った。それなのになけなしの金で宮崎にPCを買いにいったのである。ひとりで。君は行くのか。そんなにしてまで。金もないのに。

 

春先から腫瘍マーカーが上がりはじめ、TS-1の服薬を再開するも功を奏さず、一時期は去年告知された当時のような物が呑み込めない状態にもなった。そのときどう感じていたかを言葉にするのはむずかしい。怖かった。途方に暮れた。混乱して現実感がなかった。大変なことが起きているのか、病気のせいにして仕事や家事をサボっているのか、自分のことがよくわからなかった。

 

今月シスプラチン点滴を再開した。副作用は重く長期的な投与は難しいといわれる薬だけれど、効き目があったのか食事が胃に収まるようになってきた。ひどかったときはもちおが眠っていると起こしたくなかった。起きているあいだずっと薬の副作用で苦しそうだし、動けばお腹が減るし、お腹が減っても食べられるものがなかったからだ。

 

こういうことが断続的に起きるので、書斎と家計の混乱の抜本的改革に手を付ける気になれない。生きているあいだ好きなことができれば、夢中になれるものがあれば、その方がいいんじゃないかと思ってしまう。

 

規則正しく栄養バランスの取れた健康的な暮らしとは程遠い生活を送っている。成績を上げるように、ゲームのレベル上げ作業をするように、規則正しい暮らしで健康へまっしぐらにすすむことが出来たらいいけれど、日に日にそうした循環から遠ざかっている。そして皮肉なことにわたしたちはいまこれまででいちばん仲がよく、もちおは趣味に打ち込んで充実しているようだ。禍福は糾える縄の如し。わたしのつかまりどころはいまだ見えない。

 

*1:一方もちおはわたしのスマホもPCもSNSもブログも出入り自由になっている。Amazon楽天もPWを共有している。