発熱日記

いま熱を出して朦朧としている。これはベッドで寝ながらスマホで書いている。
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鼻うがいをはじめて5ヶ月目になる。


おかしな話だけれど、もちおを亡くしてからの日々で最初に心から「生きてるの楽しい!」と思ったのは鼻うがいをしたときだった。長年鼻が悪く、物心ついたときから終始モヤモヤしていた鼻の中をダイレクトに洗うのは楽しかった。こんなにすっきりするとは!



「鼻うがい最高。河豚刺身くらいいい。河豚刺身、カシミア*1、鼻うがいだ」と友人に話して笑われた。



わたしは虎河豚の刺身が大好きなんだけれど、河豚はもっぱら実家の寄り合いに呼ばれて食べるものなので実家と疎遠になってからは食べていない。ノドグロの握り、岐阜の「栗きんとん」も食べると恍惚とするものだけれど、こちらもこの辺で簡単には手に入らない。



その点鼻うがいはいい。手軽で毎日楽しめる。セブにも鼻うがいセットを持っていった。あれで喉をやられなかったんだと思う。



ところが、先週遠出した先で一度、帰宅してから鼻に出来た腫れ物が痛くて二度、鼻うがいを休んだら、てきめん風邪を引いた。



もともと腎臓病に鼻うがいが効くというのではじめたのだけれど、予想外に風邪を引かない記録を更新し続けられたことがうれしかったので残念だ。



昨日は朝から風邪のだるさがあったが、この日は一カ月ほど前から予約した健康診断の日だった。日を改めて待つのが億劫で、一昨々日、耳鼻科でもらった抗生物質を飲みながら行ってきた。



わたしは注射針が大嫌い。見るからに嫌そうな顔をしているのか「これまで倒れたり気を失ったりしたことはありませんか」と訪ねる看護士さんの声がいつも心配そう。細い針にしてもらう。10ccくらいの血液を細い針で採ることがいやでいやでたまらない。「献血では400ccほどを太い針で勢いよく採る」と聞いて献血する人を見る目が変わった。



しかしそれ以外の検査は割合どれも物見遊山で受けている。胃カメラもアトラクション感覚だ。これまで血圧が低く心拍数が高かったのに、血圧はいい感じで心拍数はゆっくりになっていて小躍りしたい気分だった。運動、いいな!他もよくなってるといいな!



枕を替えたせいか去年身長が1.5cm伸びていた。今年は体重を伸ばしたい。まず5kg増を目標に47kgあたりから。



パーソナルトレーナーが顔を見る度「食べてますか」と聞いてくるので意識が高まる。先日はたと「定食を食べるときご飯を大盛にして、トーストを食べるなら二枚にすればいいのだ」と気がついた。正確にはそう考えたときに「でも糖質はがんの餌になるから控えないといけない」という呪縛がこれまでより軽くなっていたので食べることを選べた。



実は健康診断を申し込んだのは医療保険と生命保険を整理するためだった。ひとりになって少し手堅い医療保険個人年金がん保険に入った。失業手当ても退職金も出ない身なのだからこういうところはしっかりせんといけん。



同時にこれまで入っていた掛け捨ての県民共済とクレカ経由で入ったがん保険を止めることにした。しかしもちおの経緯を省みるに、かれこれ6年人間ドックも健康診断も受けていないわたしがいまがんに罹患していない保証はどこにもない。どうせなら検査を受けて、罹患していたらもらえるものは全部もらおうと思う。



いま少し生きていることが面白くなり始めたところだから、せっかくなら健康だったらいいなと思う。ご飯を食べて、筋肉と脂肪を増やして、仕事をもっとちゃんとやる。海外へも出る。好きな人にも会う。



もちおだってそうしたかった。でも出来なかった。願うよりずっと早く人生が終わった人たちが大勢いる。わたしがその一人にならない保証はどこにもない。一日、一日が奇跡だ。



その貴重な一日をどうすることも出来ず痛みと苦しみに喘いで過ごす人生だってある。今日は朝から高熱が出て、布団の中で身体を丸めて冷え切った手足をさすりながらガタガタ震えていた。身体が痛くて痛くて身の置き所がない。



痛い痛い、寒い寒いと七転八倒しながらもちおが最期の日々に高熱を出しながら布団をかけておくことも出来ないほど弱り、痛みに喘いでいたことを思い出した。それから一昨年の一月にわたしが泊まりで出掛けているあいだにインフルエンザに罹って高熱を出して一人で寝ていたことも。



なんであんないい人があそこまで苦しみ抜いて命を終えなければならなかったのだろう。最期の瞬間に向けて容赦なく冷たくなる手足をさすりながら「もうがんばらんでいいっていってやって」と姑がいった。「はてこさんのために生きようとがんばっとるんと思うんよ」



わたしはこんなときに手垢にまみれた常套句を言わせる気かと怒りに燃えたが、もちおが息を引き取ってから弟が誰にいうともなく似たようなことをいった。普通はここまでガリガリに痩せてボロボロになるまで生きてない。もちおさんは最後の最後まで使い切って、戦い抜いていったんやね。



戦うなら仮装通貨なんかで遊んでないで温泉いったり、日を浴びたり、運動したりする方向で戦ってくれたらよかったよ!とも思う。それでももちおが最期の十日間なんども「まだこんなに動けることが信じられない」と医師らを驚嘆させるところまで全身を蝕まれてなお生きていたのは確かだ。



あの頃のことは少しずつ忘れていくような気もするし、思い出すことに耐えられるようになってから少しずつ思い出していけるような気もする。



いつかわたしが人生を終えるとき、わたしを看取るもちおはいない。迎えに来てくれるのだったらいいなと思う。「はてこがかわいいばあちゃんになるのを見たい」と泣いていた去年の五月のもちお。



あなたのかわいいカミさんはわたしが思っていたよりずっとたくましくて、時々ついていけない気持ちになるけど、もちおはきっとそれでもずっと奥さんが好きよね。



もちおがいなくなって、わたしは自分のことを遺品みたいに感じることがある。もちおにとっては掛け替えのない宝物だったけれど、わたしの世間的な価値は100円のワゴンに並べてもらうことすら出来ない古本みたいなものなんじゃないかと。



でも別の時はぜんぜん違って、これはお宝ですよ、と思う。だってもちおが長いこと手塩にかけて可愛がってだいじに磨き続けて来たんだからね。



わたしはもちおに出会って無条件に愛されることと、愛される自分を愛すること、愛し合う人生の楽しみを覚えた。



人を大好きだと思うとき、楽しくて何かに夢中になっているとき、悲しみに胸が張り裂けそうなときよりも強くあざやかにもちおが近くにいる気がする。わたしはひとりになったけど、もちおと出会う前の愛を知らなかった頃に戻ったわけじゃないんだなと感じる。



生き返らないなら覚えていたい。わたしはもちおのいない世界に日々なじんでいくけれど、ここにくる前にいた世界のことを覚えていたい。そこでもらったものでいま生きている。

*1:上質のカシミアセーターに頬ずりするときも生きててよかったと思う。

ステーションワゴンに乗って

仕事帰りにジョリーパスタスマホから更新している。

わたしは仕事でいくら稼げているのか把握していない。把握しないといけないと思いながら日々目の前の仕事と持ち越した仕事に追われている。

「生活の為に働く」というが、いまのわたしにとって仕事は食い扶持を稼ぐ手段であると同時に人間らしく社会参画する手段である。

つまり寝て、起きて、着替えて外へいく動機づけになるもの、食べて生きる理由づけになるのが仕事なのである。寝ていても口座にお金が湯水のように振り込まれる暮らしだったら、弱って死んでしまうんじゃなかろうか。

もちおがいたときは家で仕事をすることにいささか支障があったので仕事部屋を借りて、そこへいくために車を使った。

費用の面で言えば仕事部屋も車も処分した方が生活費はかからない。すぐにでも処分するべきなのではと寡婦歴2ヶ月目くらいまで悩んだ。

寡婦歴3ヶ月目でセブ島留学が決まっていたので、「この間どちらも使わないのだからこれを機に」とも思った。

しかし思い掛けない偶然が重なって、わたしは車の車庫証明をとり、名義変更を自力ですませた。図らずも登録日は16回目の結婚記念日だった。

うまくまとめる自信がなくて書かないできたけれど、うちの読者のみなさんは長文をものともしない方々である。書かないで後悔したことが増えていくので、書けるうちに書き残しておく。



夫の愛車は父の会社のものだった。


葬儀を終えて一週間も経たないある日のこと、父から突然車の名義変更の用紙を渡された。


一般的に親から車を譲り受けるとは恵まれたことだと思うのだけれど、このときわたしの胸中はどちらかといえば父から遠まわしの見限り宣言を受けた気分だった。


もちおがいたあいだは通院、療養に車があって本当に助かった。「でも普段の生活なら公共交通で何とかなる。自力で維持するのは難しいから車はいらない」と父に何度か話していた。車を維持するだけの稼ぎをどこから捻出すればいいのか。確か秋には車検もある。


以前書いたが、父はわたしに「生前贈与として不動産を譲る」と東京から呼び寄せた。そしてすっかり引っ越しが済んでから「あれは会社の持ち物だから銀行でローンを組んで買え」と手のひらを返した。


わたしたちは譲り受けるはずだった住まいに寮として住み、もちおは身を粉にして父に奉公し、病をえて遂に亡くなった。


父はもちおが亡くなる数ヶ月前から「万が一のことが起きたときは退職金として住まいの名義をお前に替える」と再び言ってきた。


そして葬儀を終えて10日ほど経った頃、またしても「あれは会社の持ち物だから渡せない」「俺が金を払ってきたものをお前が好きにするのは正直気分が悪い」「はっきりさせておくが、そもそもお前たちがこちらに住みたいが仕事も住まいもないというから提供してやったんだっただろう」と強烈な手のひら返しをしてきた。


このとき「おまえが乗る車の維持費を会社が払うのか」とも言われ、やはりあれは縁切りだったのかとも思った。父がこれまでどれほど無茶な名目で経費を落とし、親族を保険に入れているかを思えばこれはあまりな仕打ちだった。父が葬儀の会場でわたしにいった最初の言葉は「保険証を返せ」だった。


9月にはこういうことをひとくさりの文章としてまとめて書くことが出来なかった。もちおは死ぬ、もちおの病を忌み嫌ってきた父と父を支持する姉妹らとは縁が切れる。幸い「寮」からは追い出されなかったが、援助は一切ない。手元には各種請求書と寡婦スタンプラリーのための手続きが山積みで、体重は過去最低最悪である。


しかしわたしは本当に土壇場に強い女なのである。窮鼠猫を噛むというが、わたしは追い詰められたら壁抜けをする鼠だ。かくして「ご飯食べられないから入院したいので留学する」という計画が実行に移された。


11月に留学を控えた10月のある日のこと。「セブ島へいくまえに車なんとかしなくちゃな…父に返すか…近々車検だった気がするし…」と重い気持ちで仕事部屋へ向かった。


「いつだっけ…セブ島いってるあいだ預かってくれるかな…」この頃は日付どころか曜日も時間もわからず暮らしていたので、いつか確かめなければと思いながら車検の日を確かめていなかった。


「よし、ちゃんとするぞ」と信号待ちでフロントガラスをふと見ると、車検の日付は一昨日だった。
血の気が引く思いがした。


信号が変わって最初に目についたガソリンスタンドに「車検」と書かれた旗があった。これだ。何でもいいから代車を出してもらおう。心臓をばくばくさせながらスタンドに飛び込んだ。



「すみません、車検をお願いしたいんですけど!」「はい、お日にちは」
「もう、過ぎているんです」
「はい?」



結果からいうとわたしが車検の日だと思ったのは定期点検の日で、車検は来年だった。わたしは胸をなで下ろし、これも何かの縁とそのスタンドで名義変更をする決心をした。そしたら名義変更だけで3まんえんもするじゃないですか。


えー。3まんえん稼ぐのにどんだけ掛かるよ。
「自分で出来なくはないですが、結構大変ですよ」
へー。どのくらい大変か試してみようじゃないか。


「ガソリンとオイルと保険と税金と駐車場で年間…それだけ稼ぐのにかかる時間は…」と何週間も悩み続けていたのに、この瞬間からわたしの思いは「3万円かかる手続きを自力でやれるか試してみたい」に変わった。


よくしたもので、ネットを使えば車庫証明の取り方も名義変更の手続きもすべて公開されている。問題は受付時間にそれらを管轄の窓口で済ませられるかということだけれど、わたしは勤め人ではないのでこれも何とかなる。


わたしは仕事の合間を縫ってこつこつ用紙を埋め、セブ島へいく直前、出張の合間を縫って二週間ほどかけて名義変更の手続きを済ませた。


そして「今日出せなかったら名義変更はできない」という日に書類が揃った。わたしは綱渡りの予定を何とか繋ぎきり、陸運局で書き損じないようにと緊張しながら必要事項を記入していた。


その時ふと頭の中で長いこと聞いていない古い歌が流れていることに気がついた。



ヒーターを切って
コートにうずくまる
つぎの街でカセットを買おう
おしゃべりにも疲れたから



鈴木祥子だ。アルバムの歌だったな。
わたしは静かに歌いながら書類を記入し続けた。



2人の荷物をひとつにして
紙コップのコーヒーわけあえば
自由なんて 簡単に 手に入るものね

ステーションワゴンに乗って
大きな月を追いかけよう
ステーションワゴンを買って
あなたのために何でもやる

私をかわいそうと
思わないでね




次の瞬間、わたしは車検証の車種の欄をみて目を疑った。これまでずっと大型のセダンだと思っていたこの車の車種の欄には「ステーションワゴン」と書いてあった。もちおが知らない歌だったけれど、もちおが歌でわたしに語り掛けている。


留学前は出張と仕事の予定でスケジュールはびっしり埋まっており、唯一空いていた届けを出した日は16回目の結婚記念日だった。車のナンバーには結婚記念日を選んだ。もちおが好きな車だったから残しておきたかった。せめて神無月に出雲へいくという約束を果たすまで手元にあってほしかった。


車を維持する合理的な理由は見つからない。でもいまこの車を維持することはもちおの願いなのだろう。何故かはわからないけど。



ステーションワゴンに乗って
大きな月を追いかけよう
ステーションワゴンを買って
あなたのために何でもやる







私をかわいそうと
思わないでね





あっちこっちと半日がかりで走り回って、最後に陸運局のだだっ広い駐車場でナンバープレートのビスを外して、新しいプレートを取り付けた。


前と後ろ2枚のナンバープレートに8本のビスがいる。ところが、どうしても最後の一本のビスが回らない。どうやらねじ穴が馬鹿になっているらしい。


プレートチェックの係員はプレートのナンバーだけをチラと見ると「あっちでつけてください」とだけいって知らん顔だ。ナンバープレートなしでは公道を走れないが、取付てくれる人はどこにもいない。


「もっちゃん、ビスつかない。手伝って」返事はないけどいってみる。するとビスがするすると…と言うことはなかったが、わたしはくじけなかった。最愛の人を亡くして頼る身内もいない惨めな未亡人に冷たい不親切な係員の前で、惨めな敗北を喫してたまるもんか。


わたしは魔女のようにやせ細った手をバンパーの隙間に突っ込むと、あの手この手で何とかねじ穴を固定し、遂にナンバープレートを自力で嵌めた。


16回目の結婚記念日をたったひとり秋の夕暮れの駐車場で迎えた。これからわたしのステーションワゴンに乗る。維持費も稼ぐ。自分で運転してどこでもいく。あなたのために何でもやる。


こうしてわたしはいまもステーションワゴンに乗っている。いま振り返ってみると車なしには食事や買い物に出る体力はなかった。


仕事部屋もそのままだ。仕事をすべて自宅で完結させることはできる。でもセブ島留学でわかったけれど、いまのわたしには外へ出て人に会う理由が必要だ。生きるために。生きるために仕事と車が必要だから維持するために稼ぐし、生きるために仕事が役に立つから働く。


親族とは9月以来音信不通になった。でもいいの。これは人生の伏線なの。こういう展開と演出が好きなのよ、うちの人生の脚本家は。ぎりぎりのところで盛り返して、ぐいぐい生きていくヒロインが好きなんだと思う。

父の言葉

下書きにこんなテキストがあったので加筆修正して完成させました。

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わたしは夫と出会うまえに、いま思えば分不相応な相手と結婚の約束を交わしていた。

 

彼とは当時打ち込んでいたある活動で出会った。わたしは世間知らずで、理想に燃えており、彼の人となりや人物評価はすべてその組織内での活動に基づいて判断した。つまり学歴や家柄などに興味がなかった。

 

彼のプロフィールは華々しかった。彼は長身のわたしよりさらに10センチ背が高く、ハンサムで、大学名を聞いた人が「え!」と顔をほころばせるような学歴を持っていた。出会ったころは院卒の博士で、国立の研究機関に招かれて働いていた。実家は父親の稼ぎのほかに地元の大きな不動産収入があり、兄は官僚だった。まさに「末は博士か大臣か」を兄弟で実現したのである。

 

これらは見知った情報を繋ぎ合わせてわかったことで、当時はそれらが世間的に何を意味するかわかっていなかった。わたしにとって彼は家族になる予定の大切な人だったけれど、属性としては文字通り目上の頼れるひとりの男性に過ぎなかった。

 

しかし世間知らずの娘と違って、両親はさすがに理解していたと思う。口には出さなかったけれど、親に盾突いて家を飛び出し、山に籠って夢を追いかけている若いだけの娘にいったいなぜそんな話が来たのかと驚いたに違いない。

 

ともかく「結婚の話があるので会ってほしい」と伝えると、父は仕事のあと都内のホテルで会う時間を作ってくれた。

 

父は会議のあとの食事会を終えて、自ら指定した都内の名の知れたホテルのレストランへやってきた。すでに酔っていたにも拘わらず、見たことのない緊張ぶりだった。

 

父は地方では名の知れた家の長男で、子供のころから医者になることを期待されていた。ところが親を出し抜いて芸大から映画の道に進み、母と出会って大学中退で家庭を持ち、親の脛を容赦なく齧りつつ、叩き上げで会社を大きくした。要するに履歴書に書いて感心されるような背景は何もなかった。

 

いま思えば彼とわたしは住む世界がまったく違う人だった。当時わたしはそれがどれほど社会的に影響を及ぼすものなのかわかっていなかったけれど、財力はともかく経歴の点で父が自分自身と娘のわたしを彼に自慢できる要素が思いつかない。

 

愛はすべてを超えると信じて疑わない恋する若い娘と違って、あのとき父が緊張していた理由がいまになって想像できる。あのとき父は降って沸いた縁談をどう思っていたのだろう。

  

それまでわたしは父が初対面の他人と会うときの様子をほとんど見たことがなかったので、父の緊張した面持ちに驚いた。しかしさらに驚いたのは、そのあとのスマートで洗練された、それでいて友好的で親しみのこもった父の話術だった。どうした。いつもと違うじゃないか。

 

父は彼に話をふり、自然にうちとけるような相槌を打ちながら話を引き出した。父はその気になればびっくりするほど人を引き付ける魅力があることを、そのときはじめて知った。

 

「…というわけで、そこから考えるとうちはどうもこの地方の一族の出らしいんだよね」父は家族の話題から手短に先祖の系譜を語った。初耳だ。そして「要するに海賊の子孫なわけ。だからガラが悪い」と落ちをつけ、ニコッと笑った。父はハンサムで、同時に子供のような愛くるしさを持っていた。父の笑顔は人を魅了する。

 

彼が当時自分の社会的立場をどの程度自覚していたかわからないが、彼は彼で人並みに結婚を前提に恋人の親に会うことで緊張していた。恋人から「父親はヤクザみたいなものだ」と聞いていたのでなおさらだ。ところがやってきたのは素朴で粗削りな魅力を持った話術巧みな経営者である。彼はすっかり父の術中に落ちた。

 

「俺は娘は絵を書くとかモノを作るとか、そっちへ進むと思ってた。昔からそういうのが好きだったからね。でも、こいつが『叶えたい別の夢ができた』って言い出して、そういう仕事を辞めて、工場で下請けの下請けみたいなことをやり始めたとき」

 

ああ、あのとき父は失望しただろう、とわたしは思った。娘は何らかの形でクリエイターの道に進むと信じ、また願っていた母は如実に失望していた。工場のライン作業に就くくらいだったら定職につかず家で絵でも描いていた方が母は安心したかもしれない。わたしがその道から離れて何年も経っており、自分の選択に後悔はなかった。それでも父から改めてその話が出た瞬間、親の失望を思うと胸が痛んだ。

 

しかし間違いなく語り部の血を引く父はこの話題を意外な方向へ持っていった。

 

「俺は何にも言わなかったけど、『俺はこいつに負けたかもしれない』って思ったよ」

 

父は世間に背を向けて学校を辞め、夢中だった仕事を辞め、信じた道で生きることを選んだ娘をハイスペ男子の前で静かに、しかし有無を言わせぬ説得力で賛辞するためにこの話題を持ち出したのだった。これにはわたしがコロッと参ってしまった。

 

そんな風に思ってくれていたなんて。感動して泣きそうだ。わたしはなんて愛された娘なんだろう。これまでいろいろあったけれど、いまこうして愛する人と家庭を持つご縁に恵まれ、これまでの生き方を父に祝福され、わたしは世界一しあわせだ。信念を貫いて生きてきてよかった。神様、ありがとうございます。

 

 

その後半年もしないうちに彼とは紆余曲折あって別れることになった。感動は未来を保証しないのである。

 

 

別れてしばらくして、絶望のどん底でかつかつ生きていたある日、父から電話があった。むろん酔っている。

「男なんて星の数よ。おまえに惚れた弱みは似合わんぞ」

惚れた弱みはわたしの人生の中心軸といってもいいものである。しかしやはり惚れて弱っているのはよくない。

 

婚約破棄については耳蓋ぎたくなるような言葉を母からさんざん浴びせられた。そもそも不釣り合いな縁組を内心よく思っていなかった第三者からの言葉もあった。しかし父はひとこともわたしを責めなかったし、揶揄することもなかった。それでずいぶん救われた。心の中に星空が広がっていくようだった。

 

その後わたしは夫と出会い、父はなぜか夫に対しては初対面から邪見にしまくりで、籍を入れてからも娘婿と認めるまでずいぶん時間がかかったし、隙あらば「俺は父親だけど、こいつは妻にするには向かない。機会があったら別れた方がいい」と真顔で夫に迫ったりしていた。「あんたたちは仲がいいが、子供がいない」と勝ち誇ったように言ってきたこともあった。おまえの子育てに遠因があるだろうに、なに威張ってんだよ。

 

父はけして善人ではない。娘に対して正直さも誠実さもさほど持ち合わせていない。父は酒飲みで、語り部で、名言屋さんで、生まれついてのシャーマンなのだ。

 

父はよくも悪くも自分が人に何を語っているのか自覚がない。父は常日頃から神がかっており、息をするように降ってくる言葉を考えなしに口にする。

 

ということはつまり、父がどんなにでたらめで残酷な一面を持っていようが、父の言葉の効果は消えないのである。何かが父にそういわせているのであり、その何かがわたしに好意を持っていることは間違いない。それはそれ、これはこれ。

 

わたしはもう父の名言を父の人格と結び付けて父を慕うことはないが、父が口寄せしてくれた数々の貴重な言葉を、いまも好きな映画の台詞のように時おり思い出す。わたしの人生の脚本家は父にけっこう重要な台詞をいわせるのが好きらしい。最近は出番がないけれど、今後も乞うご期待である。

遅い弔問客

もちおの数少ない友人が連れ立って訪ねてきた。


もちおが友人たちと顔を見て話せない仲になって4ヶ月。お悔やみのタイミングとしてはかなり遅いけれど、今でよかったし、今日でよかった。


新幹線の距離に住むもちおの友人たちは葬儀を終えてしばらくたった頃「秋に線香をあげたい」と連絡をくれた。その頃のわたしは仕事以外のことは食事も着替えも入浴もできず、遺品と各種書類の山に埋もれて悄然としていた。このままでは先が長くないと一計を案じてセブ島へ留学したのが11月。帰国した12月は年末年始で慌ただしかった。


正直いまになってさして面識もないもちおの友人に会ってどう振る舞えばいいのか、寡婦歴の浅いわたしにはわからない。わたしは寡婦マナーに疎い。もっといえば彼らに対する怨みもあった。


わたしは彼らに、少なくとも友人1には「もちおに会いに来てほしい」と何度も声をかけていたし、もちおは帰省するたび彼らに会おうと声をかけた。友人1は告知まもない頃わたしにせっつかれて一度やって来たが、最後に連絡したのは一年前だ。あの日友人1は「仕事明けだし、正月で親戚が来ているから」ともちおの訪問を断った。もちおは友人1のために自作したパソコンを持ってきていた。


確かに急な訪問だった。でも二度と会えなくなるかもしれない切羽詰まった友人に顔を見せるための10数分すら作れないなんてことがあるか。そんなの友人といえるのか。もちおがどんなに寂しい思いをしたか想像したことがあるか。よくもあの状況で短いテキストとスタンプを送って済ませられたな。お前の血は何色だ。


わかってる。友人1はもちおと険悪だったわけでも、悪意があったわけでもない。ただただ迂闊で、友人が死にかけているという現実から目をそらして、元気だった頃のもちおの体力や気力をむやみに礼讃して自分をごまかし、世事にかまけて友に会うことを先延ばしにしていたのだ。


彼らは目の前でやせ細っていくもちおを日々凝視していたわたしとは違う時間の中にいた。いまわたしが自分の小さな世界を守るため、全世界の呻き声から耳を背けているように。


でも友達だろ。数え切れない夜と昼をともに過ごして語り合った仲だろ。その友達が恐怖のどん底で死にかかっている中、おまえに会いに来たんだぞ。よくももちおを無碍に扱ったな。


9月に会ったら何をしたかわからない。



我が家には仏壇がない。いろいろ考えた末、先月ふと思うところあって寝室の飾り棚に小さな写真立てともちおが愛用していたカップ、香立てと蝋燭を置くことにした。


来客を寝室に招くのはどうかと思い、今日は書斎にありもので小さな祭壇を作った。


「後悔していることがひとつだけあって」書斎机に置かれた骨壷を前に友人1がいった。「俺にパソコンをやるって何度もいってたのに、都合つけられなくて。考えてみたら、あの頃俺は腐ってたから、あいつはそれを心配して何とかしてやろうと思ってたんじゃないかって」


「そうだよ」わたしはいった。「『あいつはゲーム好きだし、やりたいこともあるんだから、スペックのいいパソコンあったら張り合いが出ると思うんだよね』っていってたよ。『そこから大会でたり、そのために金貯めたり、色々できると思う』って。どうして会わなかったんだよ」わたしは怒りを隠そうともせずにいった。


「最後に行ったの去年の1月だよ。もっちゃんどんなに寂しかったか」


友人1は床を見つめている。


わたしは泣きながらもちおの最期の話をした。話しながら一生忘れないと思った数々のエピソードの細部がびっくりするほど思い出せないことを知った。書けばよかった。後先考えないで書いておけばよかった。もう一緒に思い出す家族はいない。


わたしは怒っていたけれど、もはや復讐の鬼ではなかった。ただただ悲しくて、悔しくて、不公平だと思った。ひどいよ。あんまりだよ。


もっちゃんの友達のくせに。もっちゃんに出会って友達になれるなんてすごい特権なのに。もっちゃんはすごくいい人だったのに。もっちゃんは死にかかってるときに、あんたみたいな馬鹿にパソコン作って持ってくような人だったのに。逆だったら絶対あんたの顔を何度も何度も見にいったのに。もう二度と会えない。


いうだけいって、泣いて、車座に座って珈琲を飲んだ。珈琲カップは3つ。友人1、友人2、そしてもちおの分。もちおは珈琲豆を挽いて珈琲をいれるのが好きだった。コーヒーミルを使うのはもちおが珈琲を飲まなくなって以来だ。


わたしはもちおが彼らの訪問を喜んでいることを知っていた。今朝支度をしている間中、もちおが妻の肩ごしにうきうきしている気配があったからだ。「生きている間に来てくれたらよかったのに。どんなに喜んだか」と考えるわたしの心に「今日うちに友人1と2が来るな。楽しみだ」と満面の笑みを浮かべるもちおがいた。もちおは友人に会うとき自分が生きているか、死んでいるかなんて些末なことにはこだわらない男になったらしい。


わたしはもちおの持ち物のいくつかを「死蔵せず使ってもらえるなら」と友人らに渡した。それからふと思いついて「これから、カラオケに行こう」といった。


「え…?」
「よくない?歌うの嫌い?」
「いや、好きだけど」「好きです」
「よし、じゃあいこう。わたし最近ひとりカラオケばっかりだし」


わたしは二人を近所のカラオケボックスへ連れて行き、三人で二時間ほど歌った。初対面の友人2はもちろん、顔なじみの友人1とも、もちおが生きていた間は個人的に親しくやり取りしたことがない。当然カラオケにいったこともない。でも今日はなぜかこの面子で昼間からカラオケボックスで歌合戦をすることはこの上なく自然に感じられた。もちおがいると思った。楽しそうだった。9月には想像できなかった弔いの会だった。


「友人2さん、わたしたち結婚したときわたしにmixiで意地悪したでしょ」
「え!…」
「もっと早く知り合えたらよかった。きっと仲良くなれたのに」
「これからでも遅くないですよ」
「そうですね。こちらへお見えになったら気軽に声をかけてください」


わたしは二人を駅でおろしてジムへいった。そして「だいぶ声が出るようになったから、次から坂本真綾を練習するぞ」と思った。



もちおがどんどん死んでいく。毎日まいにちもちおが死ぬ。死んでいることが自然になり、生きていたときが奇跡に思えてくる。そして最近では死んだまま、わたしの人生を温めてくれるようになってきた。


死んだまま、愛してるよと何やかやと伝えてくる。しあわせになって。しあわせにすると、あの手この手で伝えてくる。

岡田斗志夫式モテモテ状態への道

朝日新聞2010年1月23日の「悩みのるつぼ」に「『スキ』のある女しかモテない?」という相談がある。


相談者は33歳女性。容姿は人並み以上で仕事もできるが恋人候補の男性があらわれても関係が深まらない。20代で別れた男性からは一様に「君はスキがない、なんとなくかわいくない」といわれた。


しかしスキとは何か。結局「セックスできそうだ」ということか。周囲を見るとそういう女性が結婚してもなおモテていて正直うらやましい。


「『スキがある』とはフェロモンですか?天性のものですか?スキがない女に恋愛は出来ませんか?」と相談者はたたみかける。


回答者として指名されたのは岡田斗志夫。岡田はこの回答のあと複数の女性を弄んだと告発され、世間を騒がせることになる。


この回答をはじめて読んだときは舌を巻いたが、いま思えば以下の回答には人心掌握歴と経験値の高さがうかがえる。


岡田の回答はまとめると以下のようなものだ。

1 見た目が標準以下の男性に積極的に話し掛ける。中身はいいのに見た目でモテない男性はいくらでもいるので映画や食事、酒に誘う

2 その結果先方からアプローチがあっても(絶対にあると岡田は保証)友達以上、恋人未満をキープ。そういう男性を3人以上つくる

3 1、2を繰り返しながら新規開拓を続け、より良い人があらわれたらチェンジする。これを一年続ける

対象外と考えていた男性との会話や食事は男性観や恋愛観を大きく育て、中身を見る目も磨かれる。周囲に素敵な男性が複数いて、つきあいたいと思われている。これが他人から見ればモテモテだということだと岡田はいう。


ただしきれいに付き合い、きれいに別れること。

・肉体関係は持たない
・デート費用は割り勘
・不倫しない

「周囲に『これが恋だ!という決め手が見つからなくて』とボヤくのも忘れずに」と岡田のケアは細かい。


要するに「微妙な関係の男友達を複数作れ、ただし借りは作るな、火遊びはするな」という話である。


「モテるとはなにか?『素敵な男性が次々言い寄ってくる状態』というのは大間違い。『男に自分を口説かせるように仕向ける行動の成果』がモテです」


やはりモテ農夫は豆なのだ。畑は耕してなんぼ、耕さずして実りをえられるのが豊かな地ではなく、耕し甲斐がある地こそ肥沃な大地なのである。


さて、セブ島へ留学して知ったのだけれど、わたしはとても知り合いたがりである。アスペルガー症候群の分類に積極的奇異型というのがあるが、うまいこと名付けたなと思った。


思い返せば小さい頃からこの調子で、よく知らない人についていったり、完全に赤の他人の家に上がり込んだりしていた。


一方、もちおは人とは時間をかけて少しずつ知り合う性格で、妻の知り合いたがりと招きたがりには閉口していた。

もちおは誰に対しても社交的で愛想がよかったが、実際には機知に富む発想と毒舌、そして迎合と妥協を拒む生き方こそが魅力だった。

もちおの情け容赦のない見解は本当に面白くて、言葉選びの秀逸さと間の取り方にはいつも圧倒された。しかし誰にでもやさしくけして人を否定しないという表向きの顔で結局生涯慕われ続けたもちおには、そのギャップを見せられる人がほとんどいなかった。

そんなわけで妻から友人、知人を紹介され、営業時間がのびると疲れてしまって不機嫌になった。面と向かって人付き合いをやめろとはいわなかったが、いつも二人でいたがり、そこに人をなるだけ入れないとなれば結果的に交友は減る。


(いまだからいうけど、妻が入り浸っていたはてなハイクのコミュニティーにもかなりのやきもちを焼いていた。)


こうして二人きりの離れ小島みたいな生活で、最後の三年間は文字通り四六時中一緒にいた。もちおはどんなに長くいても飽きない魅力を持っていたけれど、これでどちらかが先にいなくなったらどうなるだろうとずっと思っていた。そして恐れていたことが思ったよりずっと早く現実になった。


わたしはセブ島へ留学して、国籍や人種が違おうが、言葉が通じなかろうが、出会った人と手当たり次第に知り合いたがるという自分の性を思い出した。


それは今後の生存戦略としても正しい。


人に慕われる年寄りになりたいと思ってきたが、人に慕われるとは自分を慕ってくれる人が次々言い寄ってくる状態ではなく、自分に慕われることを快く思ってくれる、誘ったらうれしく思ってくれる、喜んで楽しい時間を、あるいは悲しみや怒りを、秘密や打ち明け話をともにしてくれる人がいることを指すのではなかろうか。


これからわたしが目指す、人に恵まれた人生とはこれだ。


どうしたら実現できるか。ここで岡田斗志夫式モテ戦略ですよ。


というわけで、ここ数ヶ月ではてな界隈の人たちをお誘いして、各地でお茶を飲んだり空港を見学したり怖い話をしたり通話をしたり二段ベッドの上下に泊まって上段から落としたスマホを拾ってもらったりしていた。


メンバーは男女混合で既婚者もいる。奢ることもあるし、奢られたこともあった。さらに年齢層を上下に広げ、経歴も様々に、国際色豊かに、モテモテ状態を目指していきたい。


「はてこさん、どうしてるかな。話したいな、会いたいな」といつもいつも思ってくれていたもちおはわたしにとって島のようなものだった。心の拠り所だった島が沈んでしまった。


でも、ときどきそんな風に思ってくれる人たちはまだいる。スターをくれたり、お便りをくれたり、贈り物をくれたりもする。そういう人たちは潮が引くと姿を見せる浅瀬の島のようだ。いつもは見えなくて、満潮には拠って立つところがない。でも島はある。


これからもっと増えるかもしれない。


「はてことなんか遊ぶなら、おまえとはもう遊ばない!」といわれる人もいるかと思うので、誰とどこで遊んだかは内緒ね。