「ジャップオス」呼ばわりは行儀が悪いから批判されているわけではない

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 大嫌いな人を侮辱したくて、おまえは自分が蔑むグループの一味だと断言する人がいる。そのグループを本当に蔑んでいる場合もあるし、社会的に蔑まれているのでその言葉の意味をよく考えず、反射的に罵倒語として使うこともある。

 

黒柳徹子は幼いころに見ず知らずの子供から「チョウセンジン!」といわれたことがあった。いったいなぜそんなことを言われたのか理解できなかったが、語気の鋭さ、憎しみのこもった恐ろしい形相から罵倒されたのだということはわかった。これは「窓際のトットちゃん」のエピソードだけれど、その子は朝鮮人だったのではないかと黒柳は書いている。子供は自分自身が平素いわれている侮蔑の言葉を誰かにぶつけてみたくてそのまま使ったのではないか。

 

わたしも見ず知らずの子供からJR町田駅の雑踏で突然侮辱されたことがある。「デーブ!デブデブ!」と背後から子供の声がした。わたしはBMI15の女で学生時代は「ルパン」「オリーブ」と揶揄されてきたので自分がデブと囃し立てられてられているとは俄かに信じがたかった。振り返ると丸々と肥え太ったプリプリの男子が、両手を頬の横でひらひらさせはち切れそうな腹を上下させながらぴょんぴょん飛び跳ねていた。わたしは「その子はいつも自分がいわれている言葉を侮蔑語として誰かにぶつけてみたくてそのまま使ったのではないか」という黒柳徹子の言葉を思い出した。

 

被差別属性を持つ人がその言葉で他者を罵る例としては女性が女性に対して「女々しい」というように、その言葉に込められた差別性に気づかず慣用句として使っている場合もあり、根が深い。最近女性蔑視的な男性のことを「ジャップオス」と称する人たちがいて、これは差別的なのではないかという議論がある。「ジャップ」である我々は自虐的に「ジャップ」を使うことを容認されるべきだろうか。ここに至る経緯を書いておく。

 

ツイッターレディース

去年の秋、Twitterツイッターレディースと呼ばれる人たちがあらわれた。きっかけは日本語が書ける韓国のフェミニストが、常日頃Twitterで罵倒されている女性たちを助けるため、傍観せず積極的に介入しようと呼びかけたことがはじまりだった。はてなでもよく見かける光景だけれど、とくに人種差別や女性問題に関して女性が意見すると、陰湿で下劣な粘着をいつまでも繰り返されることがある。粘着される側は多勢に無勢で疲弊し、言葉の暴力に心底傷つく。こうした問題を見て見ぬふりをするのをやめて、悪質な行為をやめるように意見しようというのが発言の趣旨だった。

 

わたしが見ていた範囲では当初呼びかけた韓国のフェミニストは粘着されている人を見つけては介入を呼びかけ、自らも間に割って入っては簡潔ではっきりした意見を表明していたものの、けして罵詈雑言を吐いてはいなかった。しかしこうした介入に熱心な人たちの中には「目には目を、セクハラにはセクハラを」の精神で競うように罵詈雑言を吐く人もあらわれた。これがツイッターレディースである。

 

罵詈雑言と差別的発言の違い

ツイッターレディースのみなさんはフェミニズムについてスーツで講演するようなスタイルではなかったが、女性とフェミニストへのあらゆる嫌がらせに勇敢に向かっていった。実際こうした介入で執拗な嫌がらせが止むこともあったし、自分への嫌がらせが見過ごされていないと感じるのはとても心強いものだ。ツイッターレディースの口の悪さを問題視する人は日増しに多くなったけれど、その大半はフェミニストへの罵詈雑言は黙殺してきた人たちだった。

 

セクハラやレイシズムを傍観せず反対するのは大切なことだ。そのさい礼儀正しく品行方正でなければならない理由もない。攻撃に反撃するカウンター活動、差別と被差別の立場を逆転させて見せるミラーリングも問題を明確にする効果がある。「死ね」といわれて「おまえが死ね」と返すのも、「痴漢は男の本能」に「玉潰しは女の本能」と返すのも言論の自由だ。しかしこうした特攻隊のなかに侮蔑語として相手を被差別属性で揶揄するものがあらわれた。

 

侮蔑語として使われた差別語を侮蔑語として使うこと、相手を侮辱する目的で自分が蔑むグループの属性で呼びかけること、そして意見を同じくしないのは相手が自分が蔑むグループに属すからだといい募ることは残念ながらレイシズム以外の何物でもない。

 

女性差別的な発言者に対して脈絡もなく自閉症だ、アスペルガー症候群だといったり、怒りたつ相手に火病だの母国に帰れだといったり、MtFに心根が男だといったりするのはそのものずばりのレイシズムだ。家族に自閉症者がいることをbioに書いている人に家族を侮辱するようなことを書いているものもいた。その人がフェミニズムについてどう考えているにせよ、こうした発言は己の差別意識を露呈するヘイトスピーチである。「ジャップオス」「ジャッポス」はこうした一連のスラングから生まれた。

 

一時期白熱したツイッターレディースとその支持者たちは男性に対するあらゆる罵詈雑言は批判すべきではない、それは女性への抑圧であり、女性差別主義者に加担することだと主張していた。わたしはこれにまったく同意できず、以下のエントリーを上げた。

ヘイトスピーチとは「弱いものいじめ」のことではない - はてこはときどき外に出る

これがもとでブロックされた人、擁護から敵対へまわった人もいたけれど、仕方がない。わたしは性自認として男性が憎いわけではなく、女性蔑視の男社会に反対しているだけなので、無差別な男性憎悪には共感できない。

 

その後しばらく諸事情でTwitterから離れていたのだけれど、戻ってきたら当時ツイッターレディースを名乗っていた人たちのほとんどがアカウントを凍結されるなどしていなくなっていた。名前を変えて戻ってきている人もいるようだけれど、誰が誰なのかよく知らない。*2カウンター活動のきっかけをくれた韓国のフェミニストもいまどうしているのかわからない。しかし女性蔑視に反論するさい差別的な侮蔑語を使う人はいまでもいる。 

 

「ジャップオス」の問題

差別語で人を侮辱するさい共通しているのは他者にぶつける侮蔑語に己の属性が含まれることはほとんどないということだ。その点日本人が日本人を「ジャップ」呼ぶのは少々変わっている。

 

「ジャップオス」と並んで問題視される言葉に「クソオス」というものがある。「クソオス」は言い換えれば「馬鹿野郎」である。馬鹿な男は馬鹿野郎と呼び、糞な男をクソオスと呼ぶのは言論の自由だ。これを男性全体への侮辱、男性性への攻撃というのは基準が高すぎるように思う。*3

 

しかしオス、メスという言葉と違って「ジャップ」はあきらかに差別的な意図のある場面でのみ使われてきた言葉だ。「ジャップ」と呼ばれた人たちがいかに過酷な迫害の歴史を見たかを考えればこれが軽々しく使っていい言葉でないことは一目瞭然ではないか。少なくとも圧倒的なマイノリティとしてそうした言葉で侮辱され、生きる権利を侵害された経験のある人を前にしていえる言葉ではない。

 

ではなぜネットの議論に「ジャップオス」などという過激な発言が飛び出すかといえば、この国ではジャップ呼ばわりされたことがない者こそがマジョリティだからである。

 

これは黒柳徹子朝鮮人呼ばわりした子供とは違う。「最初に女性をジャップメス呼ばわりしたのは男の方だ、言い返す女を批判するのはトーンポリシングだ」と反論している人がいたが、その男もまたジャップ呼ばわりされたことのないマジョリティであるため、自分の発言の劣悪さが理解できていない無知な馬鹿なのである。無知な馬鹿の差別発言をそのまま使うのはヘイトの再生産にほかならない。

 

漫画家の伊藤巳美華は3.11の復興支援メッセージとして書いたイラストの旗に「Jap」と書いて批判された。伊藤は「ジャップという言葉を日本人という意味でしか考えていなかった」と謝罪し、イラストを修正した。海外と接点のない日本人の大半は「ジャップ」という言葉がどれほど差別的な歴史を持つか、その言葉で生きる権利を奪われた人たちがどこで何をしているのか知らずに生涯を送る。それを責めることはできない。

 

しかし知ってなお、指摘されてもあくまであれこれ理由をつけて使い続けるのはありふれたレイシズムだ。その人は日本人として民族の誇りを傷つけられ、家を奪われ、仕事を奪われ、土地を追われ、安全に暮らす権利を奪われた日本人たちを踏みつける者たちに自ら加担しているのだ。「自分はジャップという言葉をそんな差別的な意味で使ってはいない。こんなことに過敏に反応するのは言葉狩りだ」という日本人を、彼らは大いに歓迎するだろう。

 

マッチポンプヒューマンライツ

差別の解消と人権をうたいながら他者の人権を軽んじる。マイノリティの苦境を声高に叫びながらマジョリティの自覚がない。これはフェミニストを自称する女性に限った話ではない。差別の解消と公平な社会の実現を熱心にうたいながら日夜女性蔑視的な発言を繰り返す男性は非常に多い。またチベットパレスチナの苦境に心を寄せながら在日朝鮮人アイヌ琉球に関しては口を極めて民族の誇りを傷つける人もいる。

 

口が悪いのは大いに結構で、頭がよくユーモアがあって口が悪い人はどこでも人気者になる。うらやましい。こうした人の揚げ足をとるのはたいそう頭が悪く見えるし場もしらける。こうした口の悪さでヘレンケラーを守ったマーク・トウェインは賞賛に値する。口が悪いことと差別的であることはまったく別問題だし、個人的な口喧嘩と属性を攻撃するヘイトスピーチは違う。

 

「マイノリティからマジョリティに向けての攻撃はヘイトスピーチにならない」。それはそうだけど、マイノリティ属性を持つ人が別のマイノリティ属性を持つマジョリティを攻撃することはヘイトスピーチになる。あらゆる場面でマイノリティである人はいないし、すべての点でマジョリティである人もいないからね。

 

kutabirehateko.hateblo.jp

kutabirehateko.hateblo.jp

 

 

 

 

*1:

反ヘイトスピーチ裁判

 信恵さんにいただいた手作りの虹色蝶のブローチ。LGBTQ支援

*2:アイコンが変わるとアカウントの区別がつかなくなるのでなおさらよくわからない。

*3:とはいえわたしはこうした問題に造詣の深い友人から「馬鹿というのは差別語だ。この言葉は長年知的障害を持つ人たちを侮辱するのに用いられてきた」といわれたことがある。男性をオス呼ばわりすることが単なる侮辱か差別かの線引きはそれぞれ違うだろう。ポルノのなかで女性の人格や尊厳を無視する文脈でメスという言葉を頻繁に使うことを思えばカウンターとしてオス呼びするのは自由だと思う人もいるだろうし、そのような文脈で使われてきた言葉だからこそ侮蔑語としても使いたくない人もいると思う。ちなみにわたしは使わない。カタカナ打ちするのが面倒だし、なんかしっくりこない。「オス」という言葉にネガティブな印象もないしな。

入院前にすませたいことがあるもちお

雑記がんばるパーソン。

 

もちおは今週点滴用のポートを入れる手術を受けるために入院する。「湯治へいっておいでよ」と妹からお見舞いが届いたが、入院前にやることをすませておきたいからと家にいて、忙しくしている。そして今日はひとりで宮崎へいった。こんなことは告知以来はじめてだ。わたしも直前まで一緒にいく予定だった。しかしわたしは寝不足でどうしても家で寝ていたかったのだった。こんなことも告知以来はじめてである。もう自分に打つ鞭が効かないのである。

 

もちおは去年受け取ったお見舞いを元手に、中古やジャンクのPCパーツをフリマアプリやオークションサイトで取引するようになった。取引の延長で動画も100本くらい上げている。毎日のように宅配業者がやってくる。妻の設計と義父の施工でインテリア雑誌に掲載したいほどすてきになった書斎はふたたび足の踏み場もない作業場となり、部屋の密度は日々高まっている。

 

最近は仮想通貨を掘るのが忙しいらしく、24時間二台のPCが全力で稼働しているため、書斎のドアから常時温熱が放出されている。凍える心配だけはなさそうだけれど、電子レンジをつけるとブレーカーが落ちるようになった。シロクマに申し訳ない。

 

うずたかく積み上げられた段ボール、梱包材、筐体、グラフィックボード、各種コード類にいったいどれほどの価値があるのかわたしにはわからない。わかっているのはもちおに万が一のことがあればすべてゴミで、それを処分するのはわたしだということだ。ちなみにもちおの銀行口座やカード番号、各種サイトのIDをわたしは知らない。*1儲かっているかどうか知らないが、現金はほとんどないということだけは今日知った。それなのになけなしの金で宮崎にPCを買いにいったのである。ひとりで。君は行くのか。そんなにしてまで。金もないのに。

 

春先から腫瘍マーカーが上がりはじめ、TS-1の服薬を再開するも功を奏さず、一時期は去年告知された当時のような物が呑み込めない状態にもなった。そのときどう感じていたかを言葉にするのはむずかしい。怖かった。途方に暮れた。混乱して現実感がなかった。大変なことが起きているのか、病気のせいにして仕事や家事をサボっているのか、自分のことがよくわからなかった。

 

今月シスプラチン点滴を再開した。副作用は重く長期的な投与は難しいといわれる薬だけれど、効き目があったのか食事が胃に収まるようになってきた。ひどかったときはもちおが眠っていると起こしたくなかった。起きているあいだずっと薬の副作用で苦しそうだし、動けばお腹が減るし、お腹が減っても食べられるものがなかったからだ。

 

こういうことが断続的に起きるので、書斎と家計の混乱の抜本的改革に手を付ける気になれない。生きているあいだ好きなことができれば、夢中になれるものがあれば、その方がいいんじゃないかと思ってしまう。

 

規則正しく栄養バランスの取れた健康的な暮らしとは程遠い生活を送っている。成績を上げるように、ゲームのレベル上げ作業をするように、規則正しい暮らしで健康へまっしぐらにすすむことが出来たらいいけれど、日に日にそうした循環から遠ざかっている。そして皮肉なことにわたしたちはいまこれまででいちばん仲がよく、もちおは趣味に打ち込んで充実しているようだ。禍福は糾える縄の如し。わたしのつかまりどころはいまだ見えない。

 

*1:一方もちおはわたしのスマホもPCもSNSもブログも出入り自由になっている。Amazon楽天もPWを共有している。

エクスマキナ 人権を持たない人間が欲しいという願望

雑記がんばるパーソン。Huluでエクスマキナを観たときのこと。

人造人間、いわゆるアンドロイド開発をテーマにしたSF映画で、A.I.にまつわる心理サスペンスもの。近未来、近未来いうけれど、本当に生きている間にこうした問題は起きると思う。つまり人権とは何かという問題。「A.I.」や「私を離さないで」に繋がるテーマでもある。

 

人権がない人間を自分の都合のいいように使いたいという願望はおそらく人類の歴史の最初からあり、最期まで残るものではないか。かつては公然と奴隷を使役する文化があり、現代はそれを機械で代用できないかという思想がある。

 

根底にあるのは思い通りになる人間がほしいという願望なので、歯車とチップの組み合わせであっても意思を持たない機械では満足できない。しかし意思と感情を持つもの、つまり好き嫌いがあり、危険を察知し、自分を守り死を恐れるものをあえて作り出し、その意思を無視することは果たしてゆるされることなのか。

 

作中で何度か大胆なヌードが出てくる。いずれも重要な場面で、人とは何かについて考えさせられた。しかしテーマがぼやけるのでヌードは不要だと書いたレビューがあった。(感想をつぶやいていたらTwitterでもそういってきた人がいた。)つまりシリアスな作品に女性の裸体=サービスシーンはいらんということだ。皮肉なことに女性の裸体=男性向けサービスというこの反応こそ、この作品のテーマがフィクションの中だけのものではないことをあきらかにしている。人の裸体はポルノの記号ではなく、男性向けのエロティックなサービスではない。

 

開発者、テストの参加者双方が白人男性で、作られたモデルが女性であったこと、その肌の色が何色だったか、どのように使われていたかということには重要な意味がある。開発者は誰の人権を剥奪したいと考えているのか、それが実現したらどのように利用したいと考えているのか。繊細な感情を持った好青年として描かれた主人公がハンディを持つ肌の色の違う女性を庇わなかったことにも注目したい。

 

うろ覚えなのだけれど、「ファイブスターストーリー」のファティマの瞳にシールドが入っているのは女性の嫉妬からだという設定があった。ファティマが現実化されるとしたら女性からの反発はあるだろうが、それは嫉妬からではなく、女の形をした人権を持たない自由意思を持つものを男性が好き勝手に使うことは、生身の女に加えられてきた暴力の延長だからだろう。シールドをつけたところで問題は解決しない。

 

いうまでもなく自分の思い通りになる人権を持たない人間を望むのは男性だけではない。けれどもこと男性が「理想の女性」として自分に都合のいい女性を望むことはロマンチックに描かれすぎてきた。エクスマキナはそのような身勝手さに「女らしさ」を持たない人工知能がどのような反応を返すかをあきらかにしていた。

 

「下人の行方は誰も知らない」という芥川龍之介の「羅生門」の最後の一文について、「下人はどこへいったのだろう。下人は私たちの世界に紛れ込んですぐそばで暮らしているのかもしれない」と高校の同級生が感想文に書いていた。この映画のラストについてわたしは同様のことを思った。

 

関係ないけど、子供の頃は21世紀の日本に「アンドロイド」がこんなに普及するとは思わなかったし、それが人の形をしていないガラス板のようなものだとはさらに夢にも思わなかった。

消しゴムの国の斉藤由貴

斉藤由貴のニュースをちょいちょい目にしたので「ネコの手も借りたい」と「透明な水」を読み返した。長い間斉藤由貴について自分の中で落としどころが見つからなかったのだけれど、斉藤由貴は本を愛し演劇を愛する猟奇殺人趣味のないラムジーボルトンだと考えると腑に落ちる。

 

「透明な水」にはキャベツ畑で生きる百姓の孤独がよくあらわれている。とくに親友がほかの少女と仲良く話していたことの復讐に、親友のスカートに赤いマジックで経血のシミを書いて片思い中の少年の前で指摘するという話がラムジーボルトンぽい。ほかにも外車ディーラーに勤めながら無垢な乙女を装って高級品をせしめる女の話など人を人とも思わない無邪気で素直で純粋な少女が多数登場する。

 

一見ごく軽い当たり障りのない短編集のようだけれど、出てくる人、出てくる人、頭がおかしい。*1「人間ってこういうところがあるよね」ではなく、人好きのする魅力的な人物が、内心では相手を自分と同じ人間だと思っていないとはどういうことかが描かれた話。

 

消しゴムの身を思いやるには意識的な努力がいるだろう。消しゴムに思いやりなんて自動的に働かないから機械的にルールを守っていくしかない。無神経とも違う。相手が消しゴムだから気を抜けば消しゴムに見えるし、良識と想像力を働かせて礼儀をしめすことはできるけれど、消しゴムは消しゴムとしか思えない。いい匂いのするきれいな消しゴムと汚れた消しゴムくらいの区別しかないなら誰だって気に入った消しゴムを選ぶに決まっている。

 

斉藤由貴が描く世界では私以外の人物は消しゴムくらいの価値しかない。消しゴムと消しゴムの物語ではない。私と消しゴムの物語だ。子供が好きな消しゴムを躊躇なく選ぶように、そしてちびて汚れた消しゴムを嫌うともなくその辺に忘れてしまうように、登場人物たちは好きな人には一直線に、嫌いな人からは一目散に遠ざかる。

 

斉藤由貴は少し前に加藤一二三と「アウトデラックス」で話していたが、斉藤は加藤を一心に見つめながら、何の下心もない真剣な口調で「好きです」と繰り返していた。あの言葉はお世辞でもなんでもない心からのものだと思う。斉藤のような女性からあんな風に好きだといわれたらドキッとするだろう。

 

彼女からそんな風にあなたが好きだといわれた人は男女問わず少なくないと思う。まるで子供のようだ。子供がお気に入りの消しゴムを見つけたときのような真剣さだ。斉藤由貴を純粋無垢で子供のような人だという人がいて、そんな風に天然を装う計算高い女だという人もいる。彼女の作品から受ける印象は、純粋無垢な子供が消しゴムを見るくらいの気持ちで人を見てあれこれ考えているようだということだ。 

 

「ネコの手も借りたい」には斉藤由貴が母からあなたは恋に酔い、自分のお遊びに相手をつきあわせているが、相手がそれを望んでいるとは限らないと指摘された話が出てくる。同じ時期、斉藤は「自分の時間はぜんぶ自分に使いたい、大人になりきれていないんだと思う」とインタビューに答えているが、これは成長の一過程の話ではない。消しゴムのために自分を差し出す気になれないのは当たり前だ。

 

かつて斉藤由貴が詩や歌にのせて表現した孤独とは成長期の一過性のものではなく、消しゴムに囲まれて暮らす多感な人物の諦観、いわばアリスの孤独だ。演技を通じて消しゴムになってみる、消しゴムの消しゴムっぷりを表現することで、一時的に消しゴムと同化しているのかもしれない。

 

今回の件でただひとつ意外だったのは、ことロマンスに関しては潔癖症の理不尽冷めエピソードを多数残してきた彼女がなぜ美意識の欠片もない写真を残すことをゆるしたのかということ。そこだけは懐深く大人になって面白い消しゴムもお気に入りにいれるようになったのかな。

 

と、いうような話をする相手がもちお以外にいないので、なんでもかんでももちおに話している。芸能界の話題なんか当たりさわりのない話のようだけれど、斉藤由貴ラムジーボルトンだと思ったら腑に落ちたといえば激高する人もいるかもしれないし、スローンズを知らない人だと何のことだかわからないし、そもそも世代的に斉藤由貴の遍歴を知らない人もいまでは多い。話し相手を探すのはなかなか難しい。

  

ちなみに斉藤由貴の歌ですきなのは「終わりの気配」です。

*1:例外はスタイリストの女性の話。

夢か呪いか

初心にかえって雑記。

先週amazonゲーム・オブ・スローンズのシーズン7を見終わった。

 

来シーズンまでノースローンズデー。

 

もちおは服薬タイプの抗がん剤がさっぱり効かなかったので点滴になった。

時間をかけていれると副作用が和らぐので2時間のところを3時間強かけて点滴。

待っている間にタブレットタブレットでスローンズを見た。

一単語もネタバレしたくないので内容について話せることは少ない

とにかく夫婦揃って、生きてシーズン7が見られたのは僥倖だった。

シーズン7を生き残れた役者さんたちもおめでとう。

スローンズ見てると病死する人がぜんぜんいない。

死因の第一位は殺害。二位はゾンビ、三位は自殺じゃなかろうか。ろくでもない。

 

預かり仕事が溜まっているのでお客さんに「人待たせて趣味のブログ書いてんよ、こいつ」と思われるんじゃないかと思っているのもあって、ここになかなか来られない。先ほど一件片がついたので雑記を書きにきたのであった。

 

書かないと忘れちゃうよね、絵も、文も、書き方を。アソシエイトの貼り方も見方も、google アドセンスの貼り方も訂正の仕方も。料理の仕方も部屋の片づけかたも、家計簿のつけかたも掃除の仕方も思い出せない。2015年の暮れまでどうやって人並みに暮らしていたのか。

 

でもスローンズの人物一覧はわかるのよね。人物相関図が浮かばない人はあたしに聞いてちょうだい。まかせて。

 

このほかに我が家でいま流行っているのはヒナまつり

ダンジョン飯4巻の続きが読みたくてHarutaを買って、ヒナまつりにはまって、大武 政夫先生の漫画は短編含めてぜんぶ買った。みんなも読むべき。もっと知られるべき。ヒナまつりの登場人物についても詳しいからわからないことはあたしにきいて。

 

娯楽はすごい。娯楽って人生のおまけのようなものだと思ってたけれど、娯楽には人生の危機を支える力がある。こういうのみんな取り上げたらだらけた暮らしが少しはましになって、なすべきことをするんじゃないかと思うことがある。これはまんま受験勉強をしなかったわたしに親がやったことで、取り上げてもやらないんだよね。本題に取り組む力を娯楽に振り向けているわけじゃないから。*1その力がどこからやってくるのか、いまのわたしにはわからないけれど、何かに夢中になっているとき、笑っているときは、少なくとも絶望していないから娯楽は悪くないと思う。

 

好きなことを仕事にして、毎日好きな時間に起きて寝て、漫画読んで、外食して、仲のいい男子と暮らしている。怒る大人はいない。子供の頃にうっかりそんな大人になりたいと願ってしまったりしたのだろうか。だとしたらそんな願いがいまごろこんな形で叶うのは夢か呪いかどちらだろう。

*1:高校受験の年は春から母が離婚していなくなり、入れ替わりに父の愛人がわたしの家庭教師という名目で家に寝泊まりするようになり、そりゃあ中学生は勉強どころじゃなくなるだろうとこの歳になって思う。